ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

誰もいじめを無くすことはできないと私は思う

 昨今、子供たちがいじめによって自殺をするという残念な事件が起きている。そして様々な報道がなされると共に、「いじめ」について今さらながらにして再度の議論がなされている。しかし、私は、誰がどのような議論を行い、行政や教育現場、そして家庭においてどんな具体策や防衛策を尽くしたとしても、子供たちが関わる「いじめ」は無くならないと考える。  「いじめ」や「いじめによる自殺」は今だけでなく、少なくとも私が小学生であった20数年以上も前から存在するという事実、そして今もって「いじめという行動」について何の変化も結果も私には見出すことができない。昨今のいじめに関する事件が氷山の一角では無いことは、誰しも否定できないのではないだろうか。  「現代の社会変化によるいじめの急増」などといった論調がもしあれば、私は大きく反論したい。そして、残念ではあるが「いじめ」を無くす、あるいは「いじめによって自らの命を絶つことを防ぐ」という事象に対する手段は皆無に等しいのではないかと私は考える。 私も、いじめられ、いじめた子供だった  私は、いじめられた経験もあり、同級生をいじめた経験もある。私の過去のエントリである「私のコンプレックス、そして親として」で当時の様子を下記のように書いた。
私は小学4年生まで「いじめられっ子」でした。厳密には3年から4年生までの2年間、様々な手法を用いて、クラスの仲間にいじめられました。何がきっかけだったか、すっかり忘れましたが、自分でも良く耐えたなという記憶は残っています。ただ、あの経験が2年間以上、続いていたとすれば、今となっては想像できませんが、私も大きな心の傷を負っていたのかもしれません。 そして、5年生になると突如として、「いじめっ子」に私は、なりました。私の親も相手の子に謝りに行ったり、先生にも、何度もやめるように言われました。 (中略) 眼鏡についても、自分の容姿についても、今では何のコンプレックスも感じていません。ただ、やはり思春期といわれる時代には、誰もがそうだと思いますが、コンプレックスを持っていたはず。私の場合は、「眼鏡をかけた自分の顔」であり「短い足」だったわけです。
 このように私は、小学生の頃、「黒ぶちの牛乳瓶の底」のようなレンズの眼鏡をしていたことや、「短い足」といった容姿が原因で「いじめられて」いた。重複になるが小学3年から4年までの2年間はクラスメートから完全に無視され、毎日、学校へ通うことが嫌で仕方が無かった。  しかし、小学5年の頃、急に背が伸び、他のクラスメートより体格が良かったというたった一つの理由で、「体格や容姿」が変であると思った同級生を「いじめる」という毎日を過ごした。私が「いじめられていた」ことについては、誰に相談することも無く、恐らく教師だけでなく親さえも知らなかったであろう。ただ、引用部分にあるように私が同級生を「いじめていた」ことは、親も教師も把握し、私は注意を受けていた。しかし、注意を受けることだけで「いじめをやめよう」という意識は私には芽生えず、卒業するまで同級生をいじめていた。2年間、自分がいじめ続けられたという経験があったにも関わらず、親や教師からの口頭での注意だけで、「いじめをやめよう」とは思わなかった。今、考えても何故だかわからない。「子供であり、心が未成熟だった」という言い訳が通用するかどうかすら、大人になった今、情けないと思いつつも曖昧である。 いつになっても「いじめ」は無くならない  「どこからどこまでが誰にとっていじめなのか」という点について、明確な定義は存在していない。また、「この子供はいじめをしそうだ」、あるいは「この子供はいじめられそうだ」といった予測を完全に行うことは誰もできない。教師・親・同級生、そして自分自身それぞれ「いじめているのではないか」、また「いじめられているのでは」といった予兆のようなものを感じることはあるかもしれない。しかし、「いじめられたという認識、いじめているという認識」は誰しも受け止め方が違うのである。  「いじめられた」と思っていても、いじめている本人には自覚がない場合、あるいは「いじめた」と思っていても相手は何とも感じていない場合など、明確に線引きすることは同様に誰もできない。よって、上述したように教育現場や家庭がどんなに対策をしたとしても、「いじめという明確な線引きが不可能な行動」はいつになっても完全に無くなることはあり得ないと私は考える。また、私のように「いじめをやめろ」と口頭で注意されても、やめようと思うことすら無いという場合もある。このように「いじめ」とは、個々にとって極めて曖昧な事象ではないだろうか。 誰がいじめを減らすことができるのか  結論から言えば、私は誰も「いじめを減らす」ことはできないと考える。マスコミが盛んに報道することで「いじめ」が減るはずがないことはわざわざ根拠を述べなくても誰しもが納得するだろう。行き過ぎた報道が逆効果になることを説明する必要も無いだろう。また、行政や教育現場が、昨今の「いじめによる自殺」という事件に対し真正面から捉え、何らかの対策を今から実施して「いじめ」は減るだろうか。減るはずは無いと私は考える。  何度も言うが「いじめ・いじめられるという過程」には明確な線引きが無く、行政・教育現場・子供たち・家庭それぞれに、表現が不適切かもしれないが、いじめに対する「温度差」に似たようなものが存在するのではないだろうか。そして、子供だけでなく大人たち、そして行政など様々ないじめに関与する人間それぞれの「温度差」の大きな違いが残念な結果を招き続けていると私は考える。 いじめによる自殺を無くすたった一つの方法  個々の事件に限って見れば、誰が加害者であるのか、何が原因なのか明確なものがあることは否定できない。ただ、「いじめによる自殺」という残念な結果に共通して言えることは、当然、異論もあると思うが、「いじめられた本人が命を絶つという最後の決意をした」ということだと私は考える。もちろん、自ら命を絶つ選択肢を迫った第三者やその過程にこそ大きな問題があることは当然のことである。  「最後の決意」をしてしまったことを非難する考えは毛頭なく、また、暴論と思われる方、突き放した論理と思われる方も多数おられるかもしれないが、いじめによる自殺を無くすには「最後の決意をさせないようにすること」が唯一無二の方法ではないかと私は考える。 本人が最も命を絶ちたくないと考えているという現実  このように、「最後の決意をさせないようにすること」が自殺を無くす唯一の方法だと私は考える。しかし、「最後の決意をさせない」ための抑止策が見当たらないという矛盾が存在している。どんな場合でも、様々に追いやられてしまった過程において、もがき苦しみ、誰に相談することもできず、「最後の選択肢として残った決意」をしてしまったという結果しか残らない現実。いじめを受けた本人こそが、苦しみの過程で命を絶つことの大きな意味を最も理解しているのではないだろうか。だから、「最後の決意をさせない」ための抑止策など存在しないと私は考える。「命の大切さ」などを教育現場で何度、伝えたところで、解決できる次元の話だとは私には到底思えない。  引用もリンクもしないが、今回の福岡の中学生の遺書は、彼自身が本当にもがき苦しみ、そして命の大切さを心から理解しながらも、迷い続け、最後の決意をしてしまったと私は思う。同じように苦しみ、迷い続けた結果、同じ行為に至ってしまった子供も少なからず存在するだろう。  私も子供を持つ父親である。見ず知らずの人の命についてこのように書き続けることすら苦しい。私の子供が同じ立場になり、同じ決断をしてしまうことなど想像もできない。もし親として当事者になれば、私自身がどのような行動に出るか予測することすらできない。  大きな矛盾を孕み、解決方法や手段が無いということ。そして子供を持つ親なら誰しもが経験する可能性があるという現実。これほど大きな深い問題に何の解決策や対処方法も見つけることができない自分が、もどかしく、情けなく、そして悲しい。