ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

誰にでも、すぐにできることができない日本

私の過去のエントリーで、何回か紹介させていただいている、富士山を世界遺産に登録させるがために、富士山周辺の清掃活動を継続されている、アルピニスト野口健氏。

その活動に着目し、大阪証券取引所大証)様が、大証上場企業の皆様に、広く呼びかけて、野口氏と上場企業社員の方々が共に富士山の青木ケ原樹海での清掃活動を11月に実施されます。

大証様の着眼点、そして大証様からの提案を受け入れられた野口氏。そして11月に第一回目の実施開始など。ここまでの情報は、私は、職業柄、以前から知っておりました。

しかし、本日のこの活動に関するある報道の文言に、かなりの打撃を受けました。

(報道そのもの、そして大証様や野口氏の今回の取組みに対する批判では無いことだけは十分にご理解下さい。)

報道の文言の要約は、

大証上場企業の中で「CSRとして何をすれば良いのか分からない」という相談が多いため、大証が企業のCSRの機会として率先して企画した。

ということです。

私が問題だと思っていること。それは、大証様が率先してCSRの機会を企画することにあるのではなく、

「上場企業の皆様がCSRとして何をすれば良いのか分からない」

という点に尽きます。

さて、少しCSRなど「言葉」の説明をしたいと思います。

CSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)は、本当に最近、認知されてきた言葉です。相次ぐ企業の不祥事が発端で、法律の遵守・社会的論理といった観点から、CSRは位置付けられています。

コンプライアンス(compliance:法令遵守)といった言葉、大手企業のコンプライアンス委員会の設置など、牛肉偽装事件を引き起こした雪印食品様(現在は会社は無くなってしまいましたが)の不祥事などが発端ではないかと私は見ていますが、いずれにせよ最近になって良く聞く言葉です。

SRI(Socially Responsible Investment:社会的責任投資)という言葉も、最近、聞かれた方も大勢おられると思います。CSRを軸に、企業が「持続的可能社会」という大きな課題にどのように取り組んでいるかを評価基準として、投資するべき企業を決定するファンドです。

Social Investment Forum(米国)に詳細は記載されていますが、米国と比較して日本はファンド規模は100分の1にも満たない額となっています。

さて、これ以上、説明しても、私が言いたいことから、かなりずれてしまうのでここらあたりで私の思いを語らせていただきます。

環境問題に関する企業の姿勢・開示の手段としては、「環境報告書」が最初だったと思います。「環境報告書」はかなりの大手企業様が、既に作成されています。そして、上述したCSRという高まりから、「CSR報告書」といったものも大手企業の皆様の一部では、既に発行されています。

しかし、何か世間の動き、上述した「言葉」にふりまわされていないでしょうか。大きな枠組みでの「環境問題」から、CSR・SRIといった言葉が世間で着目されたから、企業として何らかの取組みをしなければならないという、逆の動きになっていないでしょうか。

もちろん、すべての企業の方々が、私の上述した視点に該当するとは思っていません。

ただ、言えること。上述した、

「上場企業の皆様がCSRとして何をすれば良いのか分からない」に如実に現れているのではないか。

ということです。

言葉にふりまわされずに、大手企業様の持ち味、技術力など、大手ならではの切口で、そして大きな意味での「環境問題」に取り組まれたら良いのでは、と私は考えます。

少し視点を変えてみます。

ご承知のように、今年は台風が殺到しています。今回の台風は平成に入って、最悪の被害をもたらした台風です。法的な側面や危険性など制限はあるとは思いますが、私の提案は、これらを度外視した、ある意味での極論です。また、私がこれから提議することを既に実施されている大手企業様の取組みがありましたらご容赦下さい。

暴風・大雨などで、避難勧告が出された場合、体育館に避難されている住民の方々を良くニュースなどで放送されます。大手企業様の工場や企業保有の体育館を開放されればどうでしょうか。

あるいは、体育館での避難生活が長引く場合、無償で食料品や生活必需品を企業様から提供されればと思います。(神戸を中心とした大地震の際は、少し違ったアプローチでしたが大手企業様は、このような取組み・支援をされていたと思います。)

また、こういった時こそ、グループや業種・系列といった枠組みを超越して、地域に存在している企業として様々な支援をされたらいかがでしょうか。さらに、上述した大手企業様の技術力を「台風・防災」という観点から考えれば、様々な無償支援は可能であると思います。

気象災害に備えた基金を企業連合体として拠出しファンド組成しても良いとも思います。農家の方も台風で一瞬にして、今までのご苦労が一夜で消えてしまうのです。旅館など観光シーズンにまもなく突入する時期に、施設への浸水被害の後始末など、大変なご苦労をされています。このような方々への援助としてのファンドも可能ではないでしょうか。

また、台風での救助活動にヘリコプターをはじめ、輸送車や救援車など多数、出動されます。そういった燃料を石油会社様などが無償提供されるのも一つのアプローチだと思います。

さらに、避難勧告が遅れ、災害に遭遇されてしまった方。原因の一つは、多数の場所で様々な被害が生じており、行政の方が対応しきれなかったことが挙げられます。これを行政の対応が悪かったという観点ではなく、これだけ情報化社会と言われている今、情報関連の企業の方は、何らかのサポートはできなかったのでしょうか。少なくとも、今後は可能だと思っています。

これが最後になりますが、日本国家を象徴する方が危篤状態になられた際に、多くのCM・広告などが全国で自粛されました。極論ですが、100名近い方が亡くなられるか行方不明の中で、ある意味、神経を逆撫でするようなCMを流し続けている企業様、メディア関係者の方々。「自粛」するのも一つの姿勢では、ないでしょうか。

これがCSRではない、CSRとは言えない、と思われる方々は多くいらっしゃると思います。ただ、CSRを超越し、このような姿勢・取組みは、必ず評価されると思います。今回は台風を例にとりましたが、亡くなった方、未だに行方不明の方がおられます。

そして当社が位置する京都では、バスの屋根に一晩中、雨に打たれ、本当に死の危険性を感じられた方もおられます。そういった方々の心情を考えていただければ、私が言いたいことはわかっていただけると思います。

大手企業の皆様の優秀な知恵が結集されれば、様々なアイデア・取組みが生まれると確信しています。営利を追求し、ステイクホルダーに様々な形態で還元するのが企業です。費用対効果も、もちろん念頭にあると思います。

しかし、私の提案は、広告宣伝等に利用すれば、逆に企業にとって命取りになります。しかし、最終的には、大手企業様の「CSRへの取組み」や「環境・社会貢献活動」を超越した、企業への大きな評価に結びつくと思います。そうすれば言葉にふりまわされずに、大きな機軸が構築され、本当の企業評価、存在意義のある企業への評価は変わっていくと思います。

また、視点を変えてみます。

現在、政治の世界では、「政治家と金」が議論の中心となっています。また法務大臣の発言が発端で委員会が紛糾したとのこと。私は「政治家と金」、これらの流れを透明にすることに議論を費やすことに何の異論もありません。

しかし、もっと時間をかけて議論すること、あるいは優先して議論し、実行すべきことは、他に無いのでしょうか。あるはずだと私は思います。国会議員の方の中にも、環境問題に地道に取り組んでおられる方は少なからずおられます。しかし、大半の方は、選挙区の方だけしか意識が向いておられないと思います。

これまた、極論ですが、政治家と金の流れが透明になっても、郵政民営化になっても、「環境問題」は解決しません。

地球温暖化」が(地球寒冷化という説も実はあります。)、今、すぐそこまで来ていることが誰にでも分かっているのに、政治家としてではなく、一人の人間として、何ができるのか、何をすべきか、そして何をしたのか、今、「私はこれをやろうとしています。私はこれをやりました。」と明確に発言・断言できる政治家の方が、どれほどおられるのか。

さて、少し、感情論と抽象論が反映されている今回の私のエントリーとなりました。しかし、このエントリーのタイトルである「誰にでも、すぐにできることができない日本」。少しは私が言いたいことを分かっていただける方がおられれば、私にとっては、ありがたいです。

「環境問題」に関わらず、そして言葉にふりまわされず、目先の利益に追われず、

今、何が最優先課題なのかを見極める能力、それをすぐに実行する行動力、表層的な評価でなく、本質的な評価をもたらす取組み。

これらの能力・危機感が、今の日本全体に欠けていると私は思います。

約30年間で3000万本以上の植樹・植林「グリーンベルト運動」の発端、そして今も活動を続けられている、ケニアの政治家であり、今年のノーベル平和賞を受賞された「ワンガリ・マータイ女史」。日本では、「環境問題」がノーベル平和賞の分野にまで踏み込んだ時代になったといった程度の報道しかされていない現状。

しかし、私が今まで述べてきたことを、この方が、何の営利も省みず、純粋に実践されてきたことが、ノーベル平和賞の受賞の根幹の一つの理由にあっても良いのではと、私は考えます。