ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

第三事務所での久しぶりのブロガー各位との出会い、明日が楽しみだ。

宮崎地鶏 そのまんま 
(数年前の第三事務所でのブロガー各位との会合写真)

 明日の今頃もきっと宴は続いているだろう、宴が。
私にとって、第一事務所はもちろん私の会社。第二事務所は会社近くのファミレス。

 ファミレスが第二事務所とは異様だと思われる方もおられるかもしれないが、マニュアル化されているファミレスでも、「いつものを」と言えば、コーヒーが出てくる。店員各位は、私はいつもブラックで飲むため、シロップもクリームも何も無しでテーブルへ。
 混雑している場合でも優先的に個室を用意していただいている。

 そして、私にとっての第三事務所が、自宅近くの飲み屋。
 自宅近くには飲み屋が多数あり、いずれも第三事務所だった。

 しかし、今の第三事務所は、年末で閉店。
 5年間で100回以上、通ったところであり、かつ多様な方々と夜更けまで飲み明かした。

 今回のこのエントリはここまで。
 明日夜以降に、関係各位との出会い、宴の結果を報告することとします。

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私の人生を変えた青森県弘前市と弘前さくらまつり

 米国留学を終え、私はホテルマンになった。

  当時、全国に20店舗以上、展開していたホテルで私の祖父が「ビジネスホテル」という概念を導入したホテルチェーン。修行のため、横浜の某高級ホテルで身分を隠し、アルバイトとして働いた。
 しかし、突如として修行から約8ヶ月後、青森県弘前市のホテルへ出向命令が出た。なぜ、青森かについては、このブログを長年、ご覧になっている方ならご理解いただけるため、詳細は記載しない。

 参考:「木村秋則氏:リンゴ・リンゴジュース

 ただ、夜に青森空港に到着し、弘前市内へ向かうバスの車窓から大雪の風景を見ながら思った。「米国でMBAを取得し、東京の新規オープンするホテルで働くために修行してきた期間になぜ青森、何だろうか」と。

 そして、初日から躓いた。いわゆる革靴は雪国では通用しない。小さなアパートの一室は既に弘前店の支配人が用意してくれていた。もちろん、自家用車まで用意してくれるはずも無い。
 アパートから近くの靴屋まで、注意しながら歩き(何度も転んだが)、やっと雪国用の靴を購入した。その後、滑らない靴を履き、生活必需品や車などを購入。

 その日から、ホテルマンでは無く「リンゴ農家」各位を対象とした「樹木の味方」という剪定後の切口の塗布剤を売るための営業の日々が続いた。
 ちなみに、「津軽弁」は英語よりも遥かに難しい。当初は農家の方が笑っていれば、こちらも笑い、怒っているようであれば、謝っていたが、一年間、土日関係無しに、農家の方々と触れ合うことで、ようやく「津軽弁」を理解することはできた。

 お陰様で、二年目には、それなりに営業の成果が現れ、少なからずとも多くの方々にご利用いただくまでになった。ある意味、見知らぬ地で、見知らぬ業界で、モノを売り歩いたこととなる。
 もちろん私もリンゴについて勉強したが、それよりも多くの方々に、多様なことを教えていただいたことが、結果として現れた。

 最も嬉しかったことは、弘前城弘前公園のサクラの管理に我々の製品を利用いただいたこと。弘前市では、ゴールデンウィーク中に、サクラだけでなく、リンゴの花も満開となる。

 ゴールデンウィーク弘前公園のサクラを見る、いわゆる「弘前さくらまつり」は観光客数でいつも上位となる。そのため、2月から3月頃に、自衛隊の方々が3000本近い多種多様なサクラの剪定を行われる。高所作業になるためだ。

 その剪定切口に、我々の製品を塗布いただいている。

 専門的になるがサクラもリンゴもバラ科。剪定切口を塗布剤等で保護しなければ、切口から病原菌が容易に侵入し、腐っていく。従来は農薬を使われていたが、弘前公園の担当者の方が我々の製品を使うことを決められた。
 もちろん、利用いただくまでには様々な苦労があった。ただ、相手はサクラという嘘をつかない自然の一つ。何度か使っていただき、サクラが評価・実証してくれた。

 採用すると言われた際、若かった私は泣いた。

 そして、採用いただいた2年後だったと思う。私が属していた、祖父が築き上げたホテルチェーンが会社更生法を申請。その夜は、どのTVもトップニュースだった。生涯、忘れることの無い、テレビキャスターの声や画面。そして翌日の朝刊の一面。

 ただ、お陰様で、サクラや果樹の生育について数年間、書籍でなく現実を見続けたことで今の私の会社がある。
 人生とは不思議なもの。ただ、何事も手を抜かないことが最重要であることを、弘前市滞在中に学んだ。それだけでも今、思えば、ありがたい経験だったと思う。

 季節外れだが、私にとっては、忘れることのできない、想い出の弘前さくらまつりの動画をご覧いただければと思う。



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誕生日を間もなく迎えて思う大切なこと

私の人生

 来週の土曜日、10月29日は私の誕生日。実質、一週間後だ。

 ただ、何とも表現できない大きな違和感がある。ほぼ、平均年齢の半分を終え、人生の半分を経過したが何も残していないと思っている。

 お陰様で、5人の子供達を授かり、彼ら彼女らは元気に育っている。そして、妻には本当に感謝している。

 ただ、何か物足りない。

 我が人生で最も大きな分岐点は、親会社の倒産。

 当時は生まれたばかりの子供が二人いたが、直後に、2年間給料ゼロ。20代後半の頃だった。

 その後、何とかここまで踏ん張ってきた。だからこそ、今までの努力を形に残したい。誰かに評価いただき、喜ぶのではなく、自分自身が本当に心の奥底で「良くやったな」と思うことができるものを、残したい。

 しかしながら、現時点では「良くやったな」と言えるものが、まったく見えていない。

 いつか見えるのか、結果として見えるのか、あるいは「自分は見えていなくとも他人は見えているのか」。いずれにせよ今、見えていない。

 一度限りの、人生。

 最後には、満足できる結果を残したい。

 明日でも、一ヶ月後でも、十年後でも。

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なぜ、真夏の今、人々は無視するのか、そして責任回避と人々の劣化。

悲しみ

 数日前の夕方に大手ドラッグストアへ。

 車を停めて、ドラッグストアの入口近くに、倒れこんでいるご老人が。「大丈夫ですか」と私は聞いたが返答は無かった。ただ、焼酎のパックのようなものがあった。

 入口にある簡易椅子に座ろうとされていたのだが、恐らく、一度は座ることはできたのかもしれないが、ずり落ちてしまわれたと思う。換言すれば、ずり落ちた瞬間に頭を強打された可能性があったと私は直感した。

 私は、自分の買い物など関係なく、急遽、ドラッグストアの店員にご老人が倒れこんでいると女性店員に伝えた。女性店員は、様子を見て、「店長を呼びます」と一言。
 この真夏の中、早急な対応が必要と思いながらも、店長が来られた。

 店長と私とで、ご老人を椅子にしっかりと座れる状態にした。眼を覚められたご老人は手を合わせ、ありがとうございますの意思表示。ただ、話すことも居場所・連絡先も聞くことができない状態。

 「店長、救急車を呼びましょう、このままでは危ないですから」と私。
 「いえいえ、当方で注視致しますので、救急車は必要ありません」と店長。

 私は、自分の買い物を終え、再度、簡易椅子に座っておられるご老人に声をかけたが返答は無かった。

 「店長、やばいですよ。ご老人の意識が無いように見えますが」と私。
 「お客様(私)、これ以上は我々で何とかしますので」と店長。

 その言葉を聞いた瞬間に救急車を呼んだ私。そして、店長に対して、救急車を呼んだのは私自身ですからと伝えた。

 その瞬間に店長の顔が緩んだ。要するに、自分の失点を本部に伝えられない状況を回避できたからだろう。

 いずれにせよ、この真夏にご老人が倒れこんでいる状態を誰しも、伝えなかった人々。そして、ご老人が倒れこんでいることを知らずにいたことを失点と捉え、責任回避したドラッグストアの店長。

 私がドラッグストアへ行く前に、ご老人が倒れこんでいる姿を多数の方は見ているはず。真夏の今、死に至る可能性があるというのに。

 そして、倒れこんでいることを知らなかったという事実を隠蔽しようする店長。サラリーマンである店長の気持ちは分かる。だから私が救急車を呼び、彼の責任を回避した。
 しかし、誰が見ても、危険な状況であるご老人が倒れこんでいる姿を見ても、ドラッグストアで買い物する誰もが店のスタッフに言わなかった事実。

 極論だが私がその日にドラッグストアへ行かなければ一人の生命が失われていたかもしれない。

 日本人はここまで、劣化しているのだろうか。

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ある一晩の出来事、そして子供達の成長と妻に感謝

子供達、妻への感謝


 数週間前、三男が咳をしているのを見て、妻に聞いた。
妻曰く、三男は最寄りの病院で「副鼻腔炎」と診断され、薬を飲んでいるとのことだった。

小学校を休んだ三男

 その話を聞いた一週間後の朝、三男が、朝に突然、吐いたので、今日は小学校を休ませると妻から伝言があった。その日は、中学2年の次男がテストで昼には帰ると聞いており、午前の数時間のみ、自宅に三男が一人だけになる状態だったので何とかなると思っていた。

 会社から、私は昼間に一度、自宅に電話した。
 あまり元気には聞こえなかったが、三男は、「大丈夫」と答えた。熱も無いとのこと。何かあれば、「お父さんの携帯へ電話してね」とも伝えた。

 その後、次男が帰宅したと思われる頃に、再度、電話した。
 次男に「近くの自動販売機で三男君が欲しいと思うジュースを買ってあげて」と依頼した。次男は、即座に「分かった」と応じた。次男も三男の様子がおかしいことを理解していた。

一度、自宅へ

 過去の経験から何かおかしいと気になった私は、仕事が一段落した、その日の夕方、16時半頃に、自宅へ様子を見に行った。

 三男は寝ながら、テレビを見ていた。

 「大丈夫か」と聞くと、「冷たいお茶が飲みたい」と彼は言った。

 お茶を飲み干した姿を見た私は、「お父さん、今日はできる限り、早く帰るからね」と言い、会社へ戻ろうとした。その瞬間、彼は、洗面器に飲み干したお茶をすべて吐いた。

 背中をさすりながら、再度、「大丈夫か」と聞いた私。「大丈夫」と応じた三男。

 業務時間中であり、自室にいた次男に、三男に異変が起きたらすぐに電話してと伝え、10分程度の自宅滞在で帰社した。

妻への報告、そしてメール

 帰社し、17時過ぎに、上述した状況を妻にメールした。その後、17時半頃、妻から私の携帯に電話があった。

 「できる限り早く帰宅して」と。

 妻も三男に電話をしたようだ。ただ、私がメールで伝えた後から、三男は急速に悪化していた。妻は三男との電話の応対で直感したようだ。

 妻にメールで「何とか早く帰る」と返信した。

 ただ、いくら私が社長でも、最低でも18時までは会社にいなければならない。焦燥感を抱きながら、やるべきことをやり終え、18時半過ぎに帰宅した。

帰宅から緊急外来へ

 私が帰宅した30分前に妻は帰宅していた。

 そこには、16時半頃に見た三男の姿でなく、動くこともできず、呼吸困難と胆汁を吐き続け、倒れこんでいる小学6年生の三男の姿があった。

 私は即座に駐車場から自宅前に車を停めた。

 そして、長男と次男に「今晩の夕食は、レトルトのカレーを温めて食べて。それから食器洗いも自分達でするようにして」と言った。長男、次男は三男の様子を見ながら無言で頷いた。

 妻が三男を背中に背負い、私の車へ。ただ、車に乗る直前にも三男は吐いた。

 妻も私も、背中をさすりながらも「早くお医者さんに行こう、その方が楽になるから」と三男に声をかけ、やっとのことで病院へ向かった。

緊急外来到着

 大手病院の緊急外来に19時過ぎに到着。
 容態を見て、お陰様で優先的に診察を受けられることができた。

 レントゲン・点滴、その他、色々と。

点滴の始まり

 点滴の間、仕事で疲れている妻と久しぶりに十分にいろいろなことを会話した。ある意味、有意義な時間でもあった。

 そして、私は自宅へ電話した。21時頃だったと思う。

 食事は終わり、食器も洗い、全員、風呂に入ったと次男が応じた。

 私は一度、自宅に戻ることとした。洗濯機に入っているものを干すために。途中で、コンビニで軽食を購入した。この日、私は何も食べていなかったからだ。

一時帰宅

 21時半頃に帰宅した時、本来であれば末娘は寝ている時間帯だが、全員、起きていた。

 風呂場も綺麗に掃除されており、レトルトのカレーで油まみれの食器も綺麗に子供達は洗い終えていた。

 「今晩中には三男君とお母さんは帰るから、もう寝ていいよ」と子供達に伝えた。この一言で安心したのか、子供達は眠る用意を始めた。

 私は、前日の洗濯物を戻し、そしてその日の洗濯機のスイッチを入れた瞬間に携帯が鳴った。

 「あと30分後に、点滴が終わりそうなので、迎えに来て」という妻からの電話。

 私は洗濯云々は忘れ、病院へ行く用意をした。そして、出かける直前に、再度、子供達に「三男君とお母ちゃんは今日中に帰ることが決まったから、もう寝て下さい」と伝えた。

緊急外来、再到着

 深夜のため、渋滞も無く10分程度で病院に到着した。22時過ぎだったと思う。

 ただ、30分後に点滴終了のはずが、私が到着した時点で25%程のみ。妻は極めて疲れている様子だった。19時過ぎから22時まで、三男を見つめていたのだから。

 23時半頃、やっと点滴が終了した。寝ていた三男を起こし、帰路へ。

 食後に一錠という薬をもらったため、私がコンビニで買った軽食を三男は食べ終え、水分を摂った。30分後、吐くことも無く、大丈夫と判断し、薬を服用。本来、私の夕食であったコンビニ軽食だったが、逆に軽食を事前に購入して良かった。

 その間、妻は明日の準備をしていた。

 「本当に、お疲れさまでした」と私は妻に一言。

 その後、薬を服用後30分程度、見守っていたが、三男は変化無く、眠りに就いた。

 そして、妻も眠った。

 私は、1時間程度、再度の異変に備え、起きていたが、何も無かったため、私も眠った。極めて空腹ではあったが。

最後に

 今回のような、病気で緊急外来、入院などは、他の子供達も何度も経験済みだ。ただ、過去は、私と妻が自宅不在の場合、私の母親が面倒を見てくれていた。

 そして、子供が入院した場合、小さなベッドで妻は何度も添い寝をしてくれた。

 それが、長男が高校1年、次男が中学2年となると、申し訳ない気持ちはあるが彼らに託すことができる。そして彼らはそれに応えてくれる。

 いつになっても、私の子供達は、生涯、私の子供。

 ただ、親も子供達も、年齢を重ねるに連れ、託せること、そして彼ら彼女らが何も言わなくとも異変に気付き、自ら臨機応変に対応してくれる状況にある。

 子供達に感謝。そして、妻に最も感謝をしたい。

 そして、お陰様で、良き家族に恵まれていることにも感謝を。

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