ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

庶民感覚を忘れたニュースキャスターに「国民の代弁者」を名乗る資格など無いと私は思う

TV  昨晩は久しぶりに早い帰宅となった。通常は22時過ぎに夕食となるのだが、21時半前には夕食を終えた。昨日は急速な円高が進んだため、夕食後、自室にてノートパソコンでニュース番組の音声を聞きながら、読書などをしていた。  基本的に私はTVのニュースを見ない。見ることができる時間に帰宅できないという理由もあるが、夜のニュース番組の一部に何かワイドショー的な雰囲気を感じ、あまり価値を見出せないことが私が夜の番組を見ない最大の理由だ。  さて、22時から始まった某ニュース番組。冒頭で円高・原油高・材料高、そして政治の空白、これらが相関し「国民の負担に直結」しているといった報道がなされていた。報道内容そのものは間違った情報ではないだろう。トップニュースとして果たしてふさわしいものかについては僅かばかり疑問符が残るが。  いずれにせよ、昨晩の急速な円高についての情報を得るため、私は、ニュース番組の音声を聞くだけでなく、画面そのものをノートパソコンで見た。私が必要としていた円高に関する今後についての情報は極めて少なかったが、ニュースキャスターが少々、力みながら画面を直視し「政治家は国民の感覚を理解しているんでしょうかね?」といったコメントや、「我々、国民は動向を注視すべきです」と半ば確信めいた口調で言われていたことのみが大きく印象として残った。  久しぶりに見たニュース番組だったが、過去に見た違和感が昨晩、また蘇ってきた。「国民」という言葉に対する違和感だ。  金額がいくらか私は知らないが、ニュースキャスター各位はそれなりの高額の報酬を得ているはずだ。局専属であったとしても、メディア関連の給与は高いと聞いている。ましてやフリーであれば、我々の想像をはるかに超えた金額を報酬として獲得されているだろう。  少し話題を変えてみよう。  今回、久しぶりに見た22時に始まるニュース番組だけでなく、早朝や夕方にはワイドショー的視点と報道的視点が混合した番組が多々ある。芸能人が司会役をする場合もあれば、コメンテーターをしている場合もある。これら司会役・コメンテーターもそれなりの報酬を得ているはずだ。私がこれらの番組を見る機会・時間は皆無に等しいが所得が庶民と比較して極めて高いという点に関しては間違っていないだろう。  夜間のニュース番組と大きく違う点は、これら早朝や夕方の番組が「庶民の目線」を中心として構成されているという点だ。アナウンサーもコメンテーターも「我々、庶民からすれば理解しがたいですね」といった会話が多々、なされている。また、いわゆる「庶民」の涙腺が潤むような切口でわざわざ報道する場合もある。一つしかあり得ない「事実」も伝え方でこれほど変わるものかと思い知らされるまさにワイドショー的側面だ。  いずれにせよ、これらの時間帯の番組は「庶民の味方」という側面が大々的に恥じらいも無く繰り広げられている。  さて、夜間のニュース番組に話を戻そう。  ここではどの番組でもニュースキャスターはさすがに「我々、庶民・・・」といった表現はほとんどされない。ただ「国民」という言葉は何度も使われている。  普通の人間が「国民」という言葉を日常会話で使うことは稀だ。私は経営者の一人であり、スピーチも何度も行っているが「国民」という語句を使うことは皆無である。昨今、「国民」という言葉を多用するのは「政治家」、そしてニュースキャスターくらいだろう。  ただ、「政治家」は国民の代表の一人といっても過言ではなく「国民」という言葉を多用してもおかしくない。今の政治家が本質的に国民の代表であるかについては今回、議論の対象としない。いずれにせよ、政治家は「選挙」という国民が参加するシステムを通じて選ばれた数少ない「国民」の代表だ。では、ニュースキャスターは、国民が選んだのだろうか。決してそうではない。  しかし、一部のキャスターは「国民としては理解しがたい行為ですね」といった、自らが「全国民の総意を代弁する人間」と誤解しているかのような表現を多用される。TV画面から数百万人に見られているという現実下では「自分は国民の代弁者の代表」といった潜在的な何かが無意識に心の中に入り込むのかと思わざるを得ない程だ。  さて、先に述べたように私は経営者であり、小さなベンチャー企業の社長だ。夜のニュースキャスターや早朝・夕方の番組の司会役、コメンテーター各位の方がはるかに高い報酬を得ていることだけは断言できる。換言すれば、私はいわゆる「庶民」と変わりないということだ。そして、町を歩いている大多数の人間こそが「庶民」であり、彼ら彼女らこそが「国民一人ひとり」であり、何らかの意見を持ち、それを発する場があれば、発する「資格」を持つと私は考える。  逆に、庶民とは比較にならないほど多額の報酬を得て、かつ庶民としての生活、そして最も大切なことである「庶民感覚」を忘れてしまったニュースキャスター各位。もちろん下積み時代において「庶民の一人」だったことについては否定しない。しかし、既に「庶民感覚」を忘れてしまったキャスターに「国民の総意を代弁する人間」としての「資格」は無いと私は考える。  「国民」という表現が好きなニュースキャスターに、一度、小さな会社を経営されればどうかと提案したい。どれほど毎日、苦労の連続であるか体感いただけるだろう。「円高・原料高の町工場の苦しみ」をカメラクルーが撮影してきた「結果」だけを見て、「国民の生活は一層、苦しくなっていますね」などと言ったところで、誰もその言葉に共感するはずがないことを少しはご理解いただけるかもしれない。  人々の共感を獲得するためには、少なくとも自分が経験し、壁にぶち当たり、その壁を乗り超えた事実が無ければ誰も共感もせず、その人物に対する敬意も存在しない。これらの過程なくして、あるいはあったとしても、異質の庶民感覚と共に「言葉」だけで人々の共感を得られていると幻想しているのが、「国民」という言葉を多用する一部のニュースキャスター各位であり、そして一部の政治家であると私は考える。  ニュースキャスターの「国民の一人として憤りを感じますね」という言葉そのものに違和感、憤りを覚えるのは私だけだろうか。 ※「ベンチャー社長ブログトップ10位をクリックで確認 ※「特選された起業家ブログ集トップ10位をクリックで確認 ※「新進気鋭アーティスト:鉄人Honey、下記画像をクリック」
広告を非表示にする