ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

全国学力テストなど気にしなくていい:本物の人物となるために

 43年ぶりに小学6年と中学3年の約225万人が参加した全国学力テストの結果が、昨日10月25日に公表された。地域や学校間の差、ゆとり教育の是非など、様々な議論がなされているように見える。既に遅い、あるいは一過性のような感もあるが。  私は、最近では「男性講師が児童の舌を切るふりをした件」や、「無理難題を押し付ける保護者」など、現代の教育現場で生じている事象について批判してきた。また私のサイトでは、「現代の教育について」というカテゴリにおいて今まで様々な角度で私なりに思うことを書き続けてきた。  一方、5人の子供を持つ親として、そして環境教育といった我々の事業の中で、多くの教育現場で努力されている方々と身近に接してきた。また、私が知らない教育分野においても「学力向上」も含め様々な視点で懸命な努力をされている方は存在するだろう。  そもそも「学力」とは何なのだろうか。少なくとも私には明確な答えを知らない。  いずれにせよ、「学力」という言葉の意味が曖昧であったとしても、人それぞれの長い人生の中で、「学力」のみが発揮されることは、ほんの一場面にしかあり得ないと私は考える。もちろん、「学力」あるいは「知識」が底力として発揮することについては否定しない。  よって、ある程度、現場を知っている人間としては、今回の学力テストで判明した「学力の差」などは、教育現場においても、そして子供たちにとっても、長い人生の中では何ら大きな意味を持たないと考える。  少し視点を変えてみる。 子供たちにとって、「体験」が先か、「知識」が先なのか?  我々の会社では、過去に大手石油会社の協賛を得て、「環境NPO」と共に「環境教育」を事業として全国で実施していた。  教育現場ならどこにでもあるサクラをテーマに、保護者と子供たち、そして協賛企業社員が協力し、実際にサクラの回復作業を体験するという内容で「このような感じ」だ。ここで記載していることを引用する。異論のある方もおられるかもしれないが。
 知識からでなく、まず体験から、そしてその体験から知識を得ていくことが基本だ。頭で考えるよりも、まずはやってみる。知識だけでは、みんな同じレベルでしか変われない。だが、体験なら、一人一人、得るものが必ず違う。
 保育園・幼稚園・小学校といった世代の子供たちは、「教室」という空間で「同じこと」を教えられる。もちろん、先生方によって、個々の子供たちに対するアプローチを変えておられる場面もあるに違いない。  ただ、基本的には、やはり時間的なものなど限界があり「同じこと」を教えざるを得ない状況にあると私は考える。この「同じこと」が「知識」として積み重ねられ、個々の自己変革や人格形成の一部になっていくのだろう。ただ、私は、「知識からではなく、体験から始まる大きな広がり」が重要だと考えている。もちろん、環境教育以外でも適応する場面はあるだろう。  先に引用したように、知識だけではそれぞれが同じレベルでしか変化できない可能性が高い。体験であれば個々によって得ること、感じることが違う。そして、そこから得られたもの、感じたものなど、多様な分野において知識を持った大人が、その場で子供たちが知りたいと思った情報をすぐに伝えることが可能になると私は考え、実践してきた。  例えば、子供たちが「サクラの枯れた枝」を見て、触って、自分で枝を折ってみることなどで、それぞれ様々な思いを抱く。ある子供は「なぜ枝が枯れていてもサクラは枯れないのだろう」と考え、ある子供は「この枝で何か工作ができないかな」と考える。またある子供は「枯れた枝もそうでない枝もある。樹木も命があるのだな」とも考える。  このような多様な考えは、理科でもあり図工でもあり命の大切さを知るきっかけとなる。その問いに対して、我々大人が知っている情報を伝え、その情報を彼ら彼女らなりにそれぞれ知識として体得していくことで、「同じサクラの枝」であったとしても、個々が得る「知識は多様なモノとなり大きく広がっていく」のだと私は考える。 では、大学生、若い世代はどうなのか?  まず、過日、読み終えた下記の書籍に書かれている言葉を紹介する。以下、最終章である第五章「天命をまっとうして生きる:一人前の大人となるために必要なもの」より一部引用する。 何のために働くのか 何のために働くのか 北尾 吉孝
 節操というのは本当に大事なものです。自分の主義・主張・立場を常に明確にして、何が起ころうともそれを守り抜く。そうした節操を持つためには自分の人生観を明確にしておく必要があります。  (一部割愛)  十分な知識や節操を持つというのが見識を身につける一つの前提になります。それとともに、きちんとした倫理的価値観を持つことも大切です。知識や節操、倫理的価値観があって初めて、物事の善悪がわかるのです。そういう判断力を持った人を「見識のある人」というのです。
 ただし、見識があるだけでは、まだ人間として十分とは言えません。  (一部割愛)  知識は簡単に得ることができます。しかし、そこで満足していたのでは、到底本物にはなれません。人によっては知識を悪用したりもしますから、そんな知識なら持たないほうがいいということになりかねません。  やはり知識を正しい方向に使う見識、そして見識を実社会で実行する胆識まで揃って、ようやく人物と言えるのではないかと思うのです。
 このように書かれたものを読んでしまうと、北尾氏がいう「人物」というものになるにはかなり難しいと思わざるを得ない。  「十分な知識・節操・倫理的価値観」を持ってして「見識がある人間」になることができる。そして、見識を正しい方向で自信を持って実行する胆識を兼ね備えた人間が「人物」となると北尾氏は説いている。  十分な知識こそ大学時代に「学ぶ」ことであり、ある程度は体得できると私は考える。  ただ、節操・善悪の判断、腹をくくった実行力である胆識などは、誰かに教えられて得られるものでもなく、経験、体験といったものから得られるものではないだろうか。ここでもやはり、知識ではなく成功や失敗といった体験の積み重ねと周囲の人間の協力の有無によって、個々の「人物」の重みが違ってくるともいえる。  また、下手に知識が豊富であっても、善悪の判断力が無ければ、マイナスになる可能性もあると北尾氏は指摘している。この善悪の判断力も教えられて得られるものではない。  このように、社会に出る時期、出た時期の初期においてこそ、それまでに得た知識、体験の内容が問われ、その中身がその後の長い人生を大きく左右すると言えるのではないだろうか。 知識が多いよりも体験が多い方が良い  私は、1990年代に米国の二つの大学院を経験している。今から15年以上前の話だ。今でこそ「企業買収」で知られた「ゴールデンパラシュート」・「ポイズンピル」などの手法は、大学院時代にケーススタディで既に学んでいた。繰り返すが15年以上前のことだ。  ただ、いくら「ゴールデンパラシュート」・「ポイズンピル」を知っていても、私はそのような手法に相対したことも無い。しかし私には雲泥の差であり比較するには申し訳ないが、北尾氏にとっては、日常茶飯事の世界だろう。  ここに「胆識」の有無、大きさの違いがあるのではと私は考える。もちろん、それだけではないだろうが。  大学院で私は様々なことを学んだ。しかし、経営手法を学ぶ場であり、細かい実務を学んだわけではない。  帰国後、初めて営業で回った際、「支払い条件はどうしましょう」と聞かれて、何もわかっていない私は「当月末締めの当月末払い」という今にして思えば、不可能な支払い条件を相手先に提示していた。この失敗、恥をかいた経験は未だに忘れることはない。  知識は頭の中には入り込む。ただ失敗や多様な経験は頭だけでなく心の奥まで入り込むと私は考える。  だから、知識が豊富な人間よりも、失敗や成功をできる限り経験として獲得していく努力を、若い頃だけでなく、どのような立場、年齢になっても積み重ねていくことが、長い人生の中で「本物の人物」になる一つの近道だと私は考える。  社会という大海原を漂っているのではなく、乗り切るために。
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