ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

マイケル・ジャクソンが私の人生を左右したといっても過言でない

 

 マイケル・ジャクソンの突然の死去。驚愕と同時に多様な思いが残る。彼との出会いが結果として、私の米国ビジネススクール留学のきっかけとなり、私の人生を大きく左右した。私の中学生時代に接した数少ない英語圏の曲が「スリラー」だった。当時、直感で、この曲、この歌手は、これからもヒットすると私は確信した。私の予想はともかくも、その後、マイケル・ジャクソンは確固たる地位を築き上げた。何度も、彼のレコードを聴き、そして、歌詞を見なくとも暗記できるほどの状態になった。「スリラー」が私の英語への、あるいは英語文化圏の窓口といっても過言で無い。

 そして、「スリラー」が発端となり、英語圏の多様な楽曲を聴き、私は英語という文化にどっぷりと、はまっていった。ビリー・ジョエル、エア・サプライなど、少し時期は違えども「スリラー」がきっかけで、英語圏の楽曲に、のめり込んだ。
 私は、中学時代から大学時代まで「英語」の曲のみを聴き続けた。そして、自然に「英語」というものが好きになった。文法や読み書きといった学校の英語授業に関係なく、「音としての英語」が主体となって、私は英語をある程度、体得し、最終的には、米国のビジネススクール留学までに至った。
 マイケルとの出会いが無ければ、「英語」に興味を持つことも無く、その後の私の人生は大きく変化していただろう。彼を中心とする1980年代以降の英語音楽圏の出会いが、私の英語力の原動力だった。

 このような経緯から、はっきりと断言できることがある。

 英語の文法は、最低限を知るだけで、ほぼ十分だと私は考える。それよりも日常で使う語句を学ぶこと自体が重要だと私は思う。   今の日本の英語教育がどうなのか不明だが、私の時代は、「This is a pen.」=「これは鉛筆です」という、日常会話にはあり得ない文章を文法を理解するという名目で教えられた。日本語でも英語でも、「これは鉛筆です」という会話は皆無だ。誰しも見れば、すぐに鉛筆であることは明確であり、まさに文法を教えるためだけの、フレーズに過ぎない。

 今は恐らく、高校程度の段階で次の語句は教えられていると思うが(私は授業では習わなかった)、米国留学当初、ファーストフードの店で「For here or to go?」=「こちらでお召し上がりですか、それともお持ち帰りですか?」と聞かれた。このフレーズこそ米国で日常茶飯事で使われる言葉であり、知らなければ英語圏での生活ができない。
 さらに、町でサンドイッチをオーダーする際に、パンの素材がライ麦、ホワイトなのか、それ以外なのかで速射砲のように十数種類の素材を聞かれ、次に何をトッピングすれば良いかなどを聞かれる。「Yes, please.」では通用しない、自らの意思表示しなければならないケースが多々あった。
 多様な人種の集まりである米国文化の違いと言えばそれまでだが、留学当初は本当に気苦労の連続だった。このような事例は銀行口座開設、保険会社との交渉、ちょっとしたレストランなどでの食事など、日本での英語の授業では習わなかったが、米国では生活するには当たり前、しかし日本の英語の授業の範疇外の会話が、日常茶飯事に繰り返された。

 少し視点を変える。

 人間は、人種や国が違ったとしても、ある程度の意思疎通が可能だと双方が理解した瞬間に、人間同士の付き合いが始まる。
 「Paper or Plastic?」もそうだ。これは、マーケットで支払いする時に、商品を包む形態として「紙袋にしますか、それともナイロン製の袋にしますか?」という問いかけである。恥ずかしながら、私は当初、何を言っているのかまったく不明で、理解するのに数週間を要した。この段階では相手側の一方通行の意思疎通しか無い。
 しかし、何度かマーケットに通い、「Paper, please.」と先に言うことで、レジ係の方にとっては不必要な「Paper or Plastic?」という問いかけが無くなり、紙袋に商品を入れてくれる。これこそが、強引に思われるかもしれないが、国籍・人種を超えた、「人間」としての一般的かつ普通の付き合いに昇華した一例だと私は思う。
 いわゆる国籍や肌の色に関係ない「意思疎通」が成立した結果だ。何度も同じマーケットで買い物をすれば、レジの店員もアジア系の私の顔は覚えるはずだ。そこで、私が「Paper, please.」と言うことで、「あぁ、やっとわかってくれたか」と店員も安心し、「馴染みのお客様」に位置づけられる。

 また、違った視点で見てみよう。

 「ドル」がいつまで「基軸通貨」であるか不明だが、「英語」は、まだまだ世界の基軸言語であり続けるだろう。ただ、「基軸言語」であろうとなかろうと、教養と多様な知識があれば、相手は、どれだけ発音が悪くとも耳を澄ましてくれる。なぜなら、「こいつの言っていることは聞くに値する」と認識するからだ。
 文法や発音などは、本当に二の次なのだ。それよりも「聞くに値する」と思わせる迫力と中身が第一義となる。

 今の我が国の首相が、単なる漢字の読み違えがあっただけで、メディアは何度も嘲笑するように、おもしろおかしく、記事を書き続けていた。首相の漢字の読み違えを嬉しそうに記事を書いた記者達は、ネイティブ並みの本当に完璧な、そして教養あふれる英語を話すことができるのだろうか。一部の記者を除いて、恐らく無理だろう。記者達が、日本語での「教養あふれる会話」ができるのかどうかについても疑問に思う。読み違えだけで記事にするほどのレベルであれば、ある程度の教養の推測ができる。そして、そこには記者自らの「意思や考え」は皆無だ。

 上述したようにコミュニケーションの基本は、文法や発音で無く、中身だ。その中身に必ず付随するのが「教養」であり、「多様な知識」となる。これは、首相といった大きな肩書きに関係なく、誰にでも該当することだ。
 自分なりに確固たる考え、思いが無ければ、日本語、あるいは英語であったとしても、誰も聞く耳を持たない。「英語」ありきでなく、確固たる「自分なりの意見・考え」を明確に主張できることが最重要だ。あとは、英語に変換できるかどうかだけの、簡単な話だ。

 マイケルの話から、途中でかなり脱線したが、英会話教室に通うより、まず「母国語(日本語)で自己主張ができる人間になる」こと、「自らの思いを多言語で表現でき、相手が納得、敬意を表する程度まで昇華できる」とまでなれば、どのような国の人々も敬意を表し、心を開くだろう
 マイケル・ジャクソンは、「英語」・「ダンス」といった形で全世界の共感を得たと私は考える。彼は、英語がわからない人々の「心の奥底」まで入り込んだ。そこには、彼なりの「自己主張」、「強い思い」が確固たる形で無形ながら存在したのだと思う。
 そして、私は、マイケル・ジャクソンの、有形無形のメッセージを受けて、米国留学という道を選んだ。

 自らの人生に大きな影響を及ぼす人々は、誰にでも存在するだろう。私の場合、マイケル・ジャクソンがその一人だ。

 彼は、私の人生を大きく左右し、私の人生そのものに想定外の影響を及ぼした。
 彼に、心から御礼を申し上げたい。本当にありがとう、マイケル・ジャクソン

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