ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

祖母の死:R.K様のコメントに対する御礼の意味を込めて

祖母の死

 R.K様という方から、「将来の自分でなく、今の自分の葬式に何名来てもらえるか考えることからみえる大切なこと」という私のエントリに対して、「貴重なご自身の経験談をコメントとして頂戴」した。

 本来であれば、コメント欄にて、私なりに思うことをコメントとして書くべきところだが、コメントでお答えするには失礼になると考え、今回、間接的ではあるが、R.K様のコメントに対する御礼の意味を含め、私の祖母の死についての経験、そして思うことをエントリする。

祖母の骨折

 私が大学生の頃だったと思う。祖母が夜中に一人でトイレに行く途中に転んだ。そして、右足だったと思うが複雑骨折となった。元来、骨が脆かった祖母にとって致命的な事故だった。
 その後、病院で手術を受けた。高齢のため骨や筋肉も脆く、ギブスではなく、足の中に直接、支えるための金属を入れる大手術だった。私も手術が終わるまで、ずっと病院にいた記憶が残っている。

 その後、落ち着くまで入院となった。

 そして数週間後、退院した祖母は別人のように変化した。高齢ということ、そして入院という祖母にとって初めての経験が、祖母を変化させた。しかし、変化は顔つきだけだった。退院当初の数ヶ月間だけだったが。

それから数年間

 退院後、残念ながら祖母は寝たきりの状態となった。手術は成功したが、トイレなどは一人で行くことができなくなった。誰かが祖母のベッドの横に一晩中、付き添っていた。最も付き添った家族の一人が私の父親だった。
 数年間、その状態が続いた。退院直後は顔つきだけが変化したが、その後は人格も変化した。寝たきりの状態が数年間続けば、昼夜もわからず、これ以上は祖母の名誉のためにも書かないが、数分前に食事を終えたのに、「ご飯はまだか?」と問いかけるようにまでなってしまった。

 そして、最後の数年間は、孫の私が誰かも分からない状態にまで至った。

 数年前は「あいちろちゃん(愛一郎という私の本名から)」と呼んでくれていたのが、ある日を境にして、呼ばれることが無くなった。反応が無かったとも言える。悲しいことだったが残念ながら、それが現実だった。

強烈な思い出

 少し話を変える。

 私がまだ小学生の頃だ。母親、祖母と私とで自宅で昼食の時、私は何かの拍子で、怒り出し、ご飯をテーブルの上にぶちまけた。
 それを見た祖母は烈火の如く、怒った。「なんという、もったいないことをするのか」と。
 祖母に怒られたのは、これが最初で最後だった。だから40歳を超えた私も今も記憶に鮮明に残っている。そしてそれ以外は、優しい祖母という記憶しかない。
 いずれにせよ、祖母に怒られてから今になって、いくら怒りを覚えたとしても食べ物を粗末に扱うようなことは、一度も無い。祖母の有形無形の多くの教えの中で、唯一、有形な教えを私は守り続けている。

米国へ留学

 大学卒業後、私はすぐに米国の大学院へ留学した。その頃の祖母は、もう会話などできず、私が留学することなど、わからない状況にあった。しかし私は、出発前夜に、寝ている祖母に「おばあちゃん、行ってきます」とベッドの横で呟いた。返答は無かった。しかし、きっと心では通じていると私自身は感じた。そして「無事、大学院を卒業するまで、見守っていて下さい」と心の中で思った。

 留学して約2年後の頃。ワシントンD.C.の大学院からアリゾナ州の大学院へ編入していた時期のことだ。当時はネットなど無く、すべて国際電話でのやりとりだった。

 ある日、日本から電話がかかってきた。「すぐに帰って来い」と。

急遽、帰国

 「すぐに帰って来い」という電話を受ける前に、祖母の状態は日本から伝わっていた。心の準備はともかくも、帰国の段取りは頭の中で想定していた。
 電話を受け、すぐに大学院のStudent Office(学生課のようなもの)に走った。日本の学生課と違い、飛行機のチケットを予約することもできる。理由を説明し、翌日の飛行機を予約した。あまりにも突然なためビジネスクラスしか無かったが、エコノミークラスを待つ余裕は無かった。

 最低でも2週間程度は日本に滞在すると考え、その後、授業を受けていた教授に事情を説明した。授業に出ることができないということ、そして、もしかすればテストにも出られないということを告げた。
 教授達は、事情は分かったが特別扱いはできないと言った。しかし、それは表面上、立場上のことで、逆にしっかりと悔いの無い時期まで日本に滞在し、その後は猛烈に遅れを取り戻せば良いといったニュアンスが顔つきや話し方から見えた。教授達に対し、人種も宗教観も違うが、感情を持つ同じ人間であることを痛烈に感じた瞬間でもあった。

帰国、そして・・・

 帰国後、すぐに京都の実家に戻った。入院先から既に祖母が自宅のベッドに戻っていた。病院としても「入院を続けるよりも最後は自宅で」という結論となる程の状態だった。
 約2年ぶりに見る祖母は、留学前とはまったく違った。話しかけても答えてくれない、答えられないといった留学前と同じ状態だっただけでなく、頬は痩せこけ、自ら何かを食べることはできず、鼻ではなく口でしか呼吸ができない状態で、乾燥を防ぐために水で湿らせた脱脂綿が口の中に入っていた。

 そして帰国後、数日が経過した頃、祖母の身体は急変した。

 急変した際に、祖母のベッドの周囲には私の家族や親戚がいた。それまで普通に呼吸を続けていた祖母の呼吸の回数が、突然、減っていった。数秒に一回から、十数秒に一回といった感じだった。

 私も含め、周りの人間も冷静だった。その時が来たと確信したのだろう。

 そして、誰に言われるまでもなく、私はベッドに近寄り、祖母の首の脈をみた。十数秒に一回の呼吸が、ある瞬間から止まった。そして、脈も数秒の間隔となり、ついに祖母の脈は止まった。生まれて初めて脈が止まる瞬間、そして人が亡くなる瞬間に私は立ち会った。

 祖母の脈が止まった時の私の手の感触は今も忘れることは無く、鮮明に覚えている。ただ、脈が止まった瞬間、私が何と言ったのかは記憶に無い。ただ、私が脈が止まったことを誰かに伝え、叔父さんが時計を見て、祖母が亡くなった時間を大きな声で涙ながらに叫んでいたことだけは覚えている。
 その叫びの後、私の父は静かに涙を流し続け、母は大声を上げて泣いていた。私がその時、どういった行動をとったのか記憶に無い。ただ、先に書いたように脈が止まった瞬間の感触だけは今も鮮明な記憶として残っている。

葬儀を終えて

 社葬が終わった。

 その晩に私は、祖母のベッドがあった部屋で一人で寝ていた。ふと気配を感じ、目を開けると布団の横に祖母が座っていた。
 祖母は何も語ることは無かった。ただ、わざわざ御礼を言いに来てくれたのだなと私は感じた。そして、祖母は、何も話すこともできない状態が続いた数年間、私が留学する前夜に「米国へ行ってきます」とベッドの横で呟いたことも、祖母はすべて知っており、本当に私を見守り続けていてくれたのだなという確信をその瞬間に得た。

最後に

 人は誰しも死を迎える。

 病気が原因の場合もあれば、事故や事件、あるいは自ら命を絶つことによる死など、死の原因は様々だ。祖母の場合、病気が原因であり、その後の数年間は看病などで私の家族は本当に辛かった。
 祖母が生きている数年間、「祖母の心の叫びという存在」を聞くことも考えることも無かった。しかし、祖母自身が、本当に辛く、そして申し訳ないと心の中で毎日のように叫んでいたに違いないと今は考えている。言葉に出せなくとも、心の中では叫んでいたはずだ。

 人が死ぬという結果そのものに対して区別を付ける必要は無いと私は考える。原因が何であろうとも、死に方が違ったとしても、崇高な死や、意味の無い死など「死」という結果を他人が評価する必要は無いということだ。

 第三者ではなく、死を迎えた本人が自らの死を評価すればいいと私は考える。もちろん、死を迎えた本人が自らの死をどう考えているのか誰もわからない。それでいいと私は思う。それほど「死」とは個々の人間にとって最大かつ最後の出来事だからだ。

 私の祖母自らが、自分の死をどう評価しているのか私にはわからない。今、思うことは、祖母も自らの死に対し、できれば少しでも納得してくれていればなと心より願うだけだ。

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