ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

将来の自分でなく、今の自分の葬式に何名来てもらえるか考えることからみえる大切なこと

 妙に縁起の悪いタイトルだが、深い意味は無いことについてまずご理解願いたい。私自身、何の大病を持っているわけでもない。以下のような発端のみがこのエントリを書こうとした理由だ。 このエントリを書こうと思ったきっかけは2つ  一つ目は、昨日の来客との会話だ。  昨日、今日と京都にて外相サミットが開催されている。いつもは車で来客する方だが、交通渋滞を避けるべく、電車にて来られた。ちなみに私はサミット前日にサミット開催地である京都御所京都迎賓館のある場所)付近で、会合に参加し、その後、京都府庁、京都法務局とまさにサミット中心部分周辺を車で移動し、多くの警備の方々を車窓で見ながら(見守られながら)、一日を過ごした。  そんな話を来客としていた。その話の中で私の学生時代の頃の話もした。ちょうど私が大学生の頃に「昭和」から「平成」と変わった。この際も約1ヶ月間ほど京都御所は厳重な警備体制となり、何となく若かりし頃の風景が記憶の中から戻ってきたといった話をしていた。あの頃、先の昭和天皇の下血や吐血されたといった日々の報道から、崩御された際の報道、そして、大きな時代の変化の渦中にいたことは今も、そして一生、忘れることは無い。いずれにせよ、そこには「死」というものが存在していた。  二つ目は、東京の私の会社の株主の話だ。  東京の株主様は、京都に来られる際は、時間があれば、いつも声をかけていただく。そして一晩、じっくりと話をする。もちろん酒を飲みながらだ。終了間際になると必ず、株主様は言われる。  「社長、人間の評価というものはどれだけの人が自分の葬式に集まるかだと私は思うんですよ」と。  そして、「今、ほとんど自信が無いんですよね。人数はともかくも本当に心の底から私の死を悲しんでくれる人が何人いるのか、家族以外には想像できないんですね。これって寂しいことなのかなといつも思っているんですよ」とも語られる。  東京の株主様は三年ほど前に、お母様が倒れられた経験をお持ちだ。かなり危ない状態だったが奇跡的な回復によって、今でも現役で働かれている。しかし、危ない状態が続いた際に、株主様は長男として、いろいろと考えられたのだろう。もちろん最悪の事態も含めて。そんな経験から、「もし自分が死んだら、自分の葬式にどれだけ人が集まるか」ということが頭の中に僅かでも浮かんだことは想像に難くない。 今の自分に何人の方が葬式に参列されるか考えてみた  以下が、思いつくままに考えた結果だ。残念ながら根拠はほとんど無い。  名刺ベース:実質約800名から1000名程度  お客様や取引先等関係者:実質300名程度  友人・知人:約100名程度  合計:約1200名から1400名  今の自分の葬式に1000名近い参列者があるとは到底、思えない。当たり前の話だ。1000名の参列と言えば、例えばそれなりの企業の社長レベルであり今の私には非現実的な数字だ。今、1000名近い方が参列いただくような人間の器を私はまだ持ち合わせていないことは自分自身が十分に理解している。  また、実際に1000名の方が来られたとしても、その中で合計何名の方が心の底から私の死を悲しんでもらえるのかについて明確な答えも無い。  東京の株主様が言われるように予想できないという点では、不安になるだろう。また、もし1000名の方が参列されることが現時点で明確であれば、自分に対する他者の評価の一つと言えると思う。しかし、何名の方が参列し、その中の何名が仕事の関係といった付き合いと関係なく、心から悲しんでいただけるのかなど、ほとんどの方は明確な答えを持ち合わせていないだろう。  ちなみに「私の祖父」の場合、私がまだ小学生にもなっていない頃のことだが、参列者は京都本社の社葬で3000人を超えていると記録が残っている。全国の支店を含めれば1万人を超えた。京都本社社葬の場合、京都府知事、市長だけでなく、京都以外の財界や政界のトップなど多数の方が全国から参列された。  既に故人となっておられるが、ワコールの創業者が実家の祖父の霊前に来られた記憶が微かに残っている。他にも実家に来られた方がおられると思うが小学生前だけに記憶が無い。ワコールの創業者の車が「緑色のベンツ」だったため、記憶に残っているのだろう。  いずれにせよ、祖父の場合、参列者の人数に関係なく、心の底から祖父の死を悲しむ方が多数おられたことだけは間違いない。   今、自分が死んだ場合、一人でも心の底から悲しむ人がいると確信できれば、あなたの生き様は間違っていない  どんな人間に対しても平等に与えられているものは、「必ず明日が来る」ということと「死」だ。換言すれば、人生に一度だけ「明日が来ない日」が「死を迎える」ということだ。  今、「死ぬこと」については深く議論しない。ただ、自らが死んでしまった時にどれだけの人が心の底から悲しむかは、一つの自分の評価の座標軸になることは間違いない。残念ながら自分自身は知ることはできないが。  ただ、自分自身が今、死んだ場合、どれだけの人々が葬式に参列し、その中のどれだけの人が心の底から悲しむかについて自問自答することは決して無駄ではないと思う。ある人は、人数の大小に関係なく、「あの人は必ず心から悲しんでくれるはずだ」と明確に答えることができるはずだ。逆に「まったく見当もつかない」という状態であれば、それは残念なことかもしれないし、深く悩む必要も無いかもしれない。  著名な画家など、没後に大きな評価を得た人もいる。しかしそれは稀有な例だ。やはり死ぬ前に少しでも評価されるような人間になりたい。いや、なるべきだろう。それが人生というものだと私は考える。その評価の指標の一つが「今、自分が死んだら心の底から悲しむ人は何人いるか明確であるか否か」だと思う。もちろん「心の底から悲しむ人の存在」が「自分自身の評価」に値するかどうか疑問に思う方が存在することは否定しない。  ただ、もし、懸命に努力し、毎日、切磋琢磨しているとお考えの方は、再度になるが「自分の死を心から悲しむ人が今、何人いるか」を想像されればと私は思う。心の底から悲しんでくれる人が一人でも明確に存在していると自分自身が確信できたならば、あなたの人生、生き様は間違っていないはずだ。誰が何と感じようとも自信を持って、今の自分であり続ければいい。  お陰さまで、私も心の底から私の死を悲しむ人がいる。その事実があるだけでも、自分は幸せだ。そして、これからも邁進していこう、そしてできる限り、悲しませることのないような人生を歩んでいこうという強烈な気力を常に感じることができている。  一度、今回のエントリで書いた視点で自分自身を見つめ直されればと私は思う。 終始一貫―小島愛之助伝 法華クラブ創業への道 (1985年) ※「ベンチャー企業社長ブログトップ10位へ」 ※「特選された起業家ブログ集トップ10位へ