ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

小さな空間での罵声、そこで見えたどうしても交差することができないものがあるという現実

ある日のトンネルでの出来事  数日前の夕方、私は打合せを終え、車で会社へ戻っていた。  その途中、いつもの通勤経路でもある小さなトンネルに近づいた。車一台のみしか通ることのできない小さなトンネルだが、抜け道のようなもので大通りを車で走るよりもかなり早く会社へ到着することができる。  小さなトンネルは長さ約20メートル程。トンネルに入った瞬間に、80歳くらいと思われるご夫婦がトンネル中ほどに歩いておられた。奥様は杖を持って、そしてご主人らしき方は自転車を押しながら。  私は、車を完全に停止させ、車の窓を開け、「どうぞ、先に行ってください」と言おうとした。しかし、私の一言よりも先にご主人が叫ばれた。  「行けるだろ、先に。早く行けよ!」と。  吐き捨てるような、罵声に近いものだった。  私は、頭を下げ、車を徐行させながら、その場を走り抜けた。 別の日のトンネルで  他の日に、またこのトンネルを通ることがあった。トンネルを入ろうとすると、20代くらいのお母さんと2人の小さな子供たちが自転車で反対側からトンネルに入ろうとしていた。  私は、車を停止し、窓を開け、「どうぞお先に」といった意味を込めて、窓から手を出した。しかし、お母さんと2人の子供たちは、逆に「どうぞ先に行って下さい」といった感じのジェスチャーを見せた。  私は、ゆっくりと車を走らせ、トンネル入り口で待ってくれていたお母さんと2人の子供たちに車内から軽く会釈をした。相手も軽く会釈を返してくれた。 数秒間のコミュニケーションに存在する大きな違い  「小さなトンネル」という危険な空間では、私は自分の車よりも歩いている方や自転車に乗っている方に先に通ってもらう。そして、数秒間の出来事ではあるが、そこには、多くの場合、お互いに軽い感謝のようなコミュニケーションが存在する。  逆に、先に書いた老夫婦のような罵声をこの「小さなトンネル」では今まで経験したことが無かった。しかしこれも一つのコミュニケーションなのかもしれない。負のコミュニケーションといっては大げさかもしれないが、そこには大きな違いがあると思う。  私は今回のような罵声を浴びせられるくらいではまったく何も気にならない男だ。しかし、世間の多様な人々の中には、ちょっとした罵声、ちょっとした言葉の行き違いで大きな心の傷を負う人が存在するのではと私は考える。「小さなトンネル」に限らず、電車の中や会社、そして学校など様々な場所で、ある人にとっては些細なことでも、ある人にとってはとてつもなく悲しいことと考える、思い込んでしまうことがあるということだ。 罵声を浴びたことで唯一、見えたもの  今回、罵声を浴びせられた後、なぜ、あのような言葉をご老人が発せられたのか、しばらくの間、考え続けていた。しかし、いつになっても答えはみつからなかった。  自分が良いと考えた行動も相手にとってはそのように捉えてもらうことができないという事実だけは私にも理解できた。  どうしても交差することができない、どんなに自らが努力しても相手にはわかってもらえない何かが存在していると言えるかもしれない。現代の社会の一面を現しているとも言えるかもしれない。  そして、ご老人の罵声はともかくも、先に書いたように些細な言動で大きな心の傷を負ってしまう人の存在も、このエントリを書きながら改めて認識した。ただ、私自身がいくら注意しても、ちょっとした私の言葉で心に傷を負う人がいることも、また心に傷を負わせてしまうことを回避できないという事実も存在しているのではないかと考えた。  罵声を浴びることも、相手の心に傷を負わせてしまうような言動も、日常生活の中で回避できず、突如として降りかかってくるという現実。これもどれほど自らが努力しても無理な事実の一つだろう。  いずれにせよ、これ以上、なぜご老人があのような言葉を発せられたのかについては考えないこととしよう。またなぜこんな世の中になったのかについて模索することもしない。  ただ、今回、いろいろと考えながら、唯一、一つだけ見えたことがある。  自らがどんなに努力しても回避できない何かが現実として存在しているのなら、自分が唯一できることは、少なくとも、こんなちょっとしたことで、罵声を浴びせるような人間にだけは私は絶対になりたくない、ならないということだ。 ※「ベンチャー企業社長ブログトップ10位へ」 ※「特選された起業家ブログ集トップ10位へ