ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

国家と鎧

中国では反日デモがかなり激しくなっているようである。

また、昨今は日韓問題も悪化の傾向にあるようだ。

米国留学時代、私はワシントンDCとアリゾナ州の二つの大学院に在籍していた。

ワシントンDCのビジネススクールでは台湾、韓国、中国から来た留学生達と、

アリゾナのビジネススクールでは香港、インドからの留学生といった感じで、

彼らとは今でも、親しくコンタクトをとっている。

中国や韓国の友人に現状を確認したが、

それほど日本のメディアで騒がれている気配を感じることはないとのこと。

さて、今日のエントリーは昨今の中国や韓国との関係に焦点を当てたものではない。

もっと大きな枠組みでの、人間の根幹に該当する私の思いとして理解いただきたい。

そして、微妙な中国・韓国問題と離れたエントリーとして可能であれば各位、コメント等をいただければと思う。(コメントをいただいても皆様のブログに影響を及ぼすほど私のサイト、そしてJUGEMは大きな影響力を持っていない。)

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米国留学時代、私は「KOJI(コジ)」というニックネームで誰からも呼ばれていた。

ある日のこと。今でも鮮明に覚えている。

ワシントンDCにいた頃、最も親しい韓国の留学生と一晩かけて議論した。

日本と韓国の歴史問題について。

彼のニックネームはJC(ジェイシー)。

韓国名のラストネームとファーストネームの頭文字をとったものだ。

お互い英語でのコミュニケーションであり、完全な意思疎通が図れたかは定かではない。

ちょうどお互いの年齢も同じ程度で、戦争を経験しているわけでもない。

また、お互い険悪な雰囲気での議論でもなかった。

授業で議論するようにお互い冷静に、時には楽しく議論をした。

いろいろな角度から議論をした。本当に。

そして、最後にJCが言った。

「KOJI、俺はお前と卒業しても一生、友人でいたい。」

「ありがとう、JC。私もお前とは、生涯の友人だと思っている。」

「しかし、KOJI。KOJIが日本人だからなどは関係なく、KOJIという人間が好きなんだ。」

「JC、俺も、お前が韓国人だからどうこうというわけでもなく、同じようにJCという人格に惚れ込んで今まで付き合ってきたよ。」

「違うんだ、KOJI。今日、KOJIと議論して日本について色々と考えたが、日本が好きということではないんだ。」

「・・・・・」

「KOJI、お前は日本人、そして俺は韓国人。これは余程のことがない限り、変わることはないだろ。」

「あぁ、そうだ。」

「韓国という国家で考えれば、やはり俺の立場としては、日本という国自体を好きになることはまだない。」

「じゃぁ、俺はどうすれば良いんだ?」

「KOJIが何をする、何ができるという問題ではないと思う。一晩中、議論しても結論は出なかっただろ。」

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私は思う。

中国や韓国と日本の関係。あるいは諸外国同士の歴史的な紛争。

これらの状況に関係なく共通していること。

そして、JCとの議論で見えたこと。

それは、国家というものは、最初から、常に「鎧(よろい)」が「まとわれている」ということ。

「まとっている」のではない。

そして、時代に応じて「鎧」の種類は変化することがある。

しかし、「鎧」はいつになってもはずすことはできない。国家にとって必要だから。

ただ、個々の人間の大半は最初から「鎧」をまとっているわけではないと思う。

生まれたばかりの子供に「鎧」なんかはついていない。

国がまとっている「鎧」の形と、個々の人間が、まとっている「鎧」の形が違うことも多々、あると思う。

大人になっても「鎧」をつけていない人間もいるかもしれない。

しかし、相手の国が本来、まとっている「鎧」を他国の人間が取り除こうとした瞬間に、

個々の人間も相手の国と同じ本来の自国の「鎧」を無意識の内にまとってしまう。

懸命に取り除こうとすればするほど、個々の人間の「鎧」も本来の自国の「鎧」に限りなく近づき、頑丈になってしまう。

そして同じ「鎧」同士が固まり、さらに強固な「固まり」になる。

だから、最初から相手の国がまとっている本来の「鎧」を取り除こうとするのではなく、

個々がまとっている「鎧」の形をまず見極め、

自分も相手の国と同じ形の「鎧」を身に付けるか、

自分の国が付けている「鎧」を脱ぎ捨てたことを相手に伝えるか、

あるいは、お互い「鎧」を取り去って、対話をするか。

いつになっても、お互い「違う鎧」、「自国の統一された鎧」をまとったままでは、何も変わらない。

まずは、個々が個々の「鎧」を取り去るか、結果として強固になってしまった自国本来の「鎧」変えることから始めない限り、

いつになっても変化は見えてこない。

国家は、そう簡単に「鎧」を脱ぎ去ることはできない。

国家が、「鎧」を変える時、変えようとする時、変えられる時。

それは、個々が大きなうねりとなって、国家に対し「鎧」を変えることを望み、

実際に行動に出るときしかない。

そう、国家にとって「鎧」とは「体制」と同じなのだから。

JCや私だけといった個々が議論しても何も変わらない大きな理由がここにある。

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皆様、今日のエントリー、またまた思いつくままに書き連ねましたので、非常に抽象的です。結論もありません。

ただ、米国という異国の地で、例えばJCと私のように、日本人と韓国人が議論する場合、異国の地であるからこそ、最初から自然に、そして無意識の中でそれぞれの国の「鎧」をお互いが脱ぎ去っているのではという思い。そしてこれこそが出発点ではないかという観点。これが一番、お伝えしたかったことです。

自分の国にいると自国の「鎧」は意識しなくとも、自国にいるからこそ他国の「鎧」がいびつに見えてしまう。

お互いの「鎧」を意識するか、「鎧」を脱ぎ去った無意識の状態か、これらのいずれかから議論は始まるのではないかと私は思います。そして、この点は政治だけでなく様々な社会で通用することだとも思っています。

ではこれにて。

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