ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

僕は「カ」じゃない!

政治家の失言、暴言

 ご承知のように我が家には5人の子供たちがおり、週末は、野球好きの三男坊を中心に、近くの空き地で野球をすることが日課のような感じになっている。

 この週末も、次男坊、三男坊、四男坊、そして末娘と私で「野球のようなもの」をしていた。長男は中学のクラブ活動で、手一杯の感じで、あまり参加できていない。もう5年もすれば家族全員での旅行も難しくなるかもしれない。これも時の流れのようなものだと思う。家族の成長とでも言えるかもしれない。

 さて、「野球場である空き地」の横には道路を挟んで田んぼがある。たまに、ホームランやファールボールが田んぼに入ることがあり、今は稲刈りを終え、容易にボールを拾うことができるが、水田状態の時は一苦労だ。水田に入ることは無理なため、農家の方に拾っていただくか、農家の方がおられない時は、手紙を田んぼに残し、後日、ボールを届けてもらうような流れになっている。

 いずれにせよ、田んぼへボールが入った場合は、入れた人間が取りに行くことが原則だが、末娘や四男坊は、まず田んぼに入ること自体が無理なため、多くの場合、次男坊の仕事となる。

 さて、この週末、キャッチャーは私、ピッチャーが三男坊、バッターが次男坊、そして四男坊と末娘は守備という状況で、ちょっとした「騒動」が勃発した。

 バッターである次男坊が打った球は、見事な流れで、田んぼへ着地。

 すぐさま私は次男坊に言った。

「か! ボールを取ってきて」と私。

「お父さん、僕はカじゃない!」と突然、怒り出す次男坊。

 私は、一瞬、何のことかと思った。そして「カ」とは何か頭を巡らし、やっと理解できた。

 次男坊の名前は「か」で始まる。私は彼をフルネームを呼ぶこともあるが、6割程度は「か」と呼ぶ。彼は「か」とだけ呼ばれることが嫌だったのだ。ただ、それを私に伝える機会が今までに無かった。

 しかし、自分が打ったボールを田んぼに取りに行くという僅かばかりの苦労と、「か」と呼ばれ続けている日頃の鬱憤が、僕は「か=蚊、ではない!」という言葉としてとうとう発露された。

「すまん、そういえば僕は、血なんか吸わへんもんなぁ」と私。

「そうやで、お父ちゃん、わかってる?」と田んぼへ歩きながらつぶやく次男坊。

 何気なく、そして何も考えずに数年間、「か」と次男坊に対し呼び続けていた私。そして小学校高学年になり、それなりに精神的にも肉体的にも大人に近付いている次男坊。私の完全な認識不足だった。

 昨今、政治家の失言や暴言が世間を騒がせている。

 確信犯的な発言だった大臣も存在していたようだが、「発する言葉一つ一つ」に責任を伴う「政治家」という職業にとって、失言や暴言ではないと自らが思っていても、誰かがその言葉に傷付く可能性があることは否定できない。普通の人間(普通の人間という定義が曖昧ではあるが)では想像できない「言葉」も、ある人にとってはつらい言葉に捉えられる場合もあるだろう。

 「おおた 葉一郎 の しょーと・しょーと・えっせい:「日教組はがん発言」のもう一つの問題」で「おおた様」は下記のように指摘されている。

そして、「日教組はがん」という発言には、さらに大問題がある。

現在、がんと戦っている多くの患者の方々、あるいはがんを克服したものの、心の片隅に、再発の懸念を密かに感じている人たちへの配慮である。現代は、がんを克服する時代なのであるのに。

 さて、私の次男坊に対する「か」という呼び名。上述したように、次男坊にとっては、つらい言葉だったはずだ。考えてみれば彼を「か」と呼ぶ友達は誰一人いない。家族にも存在しない。失言ではなく、次男坊にとっては「暴言」に近いものとして感じていたに違いない。

 他にも、私は妻や子供たちに無意識の中で「失言」や「暴言」を発しているかもしれない。家族だけでなく、仕事仲間や取引先まで、同じ過ちを犯しているのかもしれない。

 庶民である私でさえ、それも最も身近で大切にすべき子供に対し、暴言を数年間、続けてきたという事実。大きく反省すべきと考えている。ただ失った数年間をもう取り戻すことはできない。よって、今までの非を謝り、これからフルネームで次男坊を呼び続け、態度を改めることで理解してもらうしかないと考えている。

 政治家各位は、自らが発する「言葉」の重みについて、再度、認識を改めていただければと考えている。

 何気ない、たった一言で、多くの人々が傷付く可能性があることを理解していただくと共に、自らが発する前に「この言葉で大丈夫だろうか」と考え、そして発言していただきたい。

 それでも、政治家の失言や暴言は無くならないのではというあきらめに近いものがある。選挙や魑魅魍魎の政治の世界で様々な罵声や怒声を受け過ぎて感覚が麻痺しているのかと思うこともしばしばある。そんな政治家に庶民の痛みなど到底、理解できるとは思えない。

 我が次男坊は、私に対して明確に「僕は蚊じゃない!」と発した。庶民も明確ではないかもしれまないが、「我々は馬鹿じゃない!」と政治家各位に発しているはずだ。この声が聞こえているのか、聞こえていても、聞こえないふりをしているのか、どちらだとしても、不適切な発言が、何度も生じる「本当の理由」が私にはわからない。

 いずれにせよ、第三者の言葉で傷付き、本当につらい思いをした経験が無い政治家が今、まだ少なからず存在している限り、薄い言葉、軽い言葉は発せられ続けるのではないかと私は考える。謝罪すれば、発言を撤回さえすれば終わりと考えられているのかもしれない。数日経過すれば、世間は忘れてくれるだろうと思っておられるのかもしれない。また、謝罪や発言撤回のみで、その後の態度で示すなど、頭の片隅にも無い方が大半のような感もある。

 

 中小企業の社長だけでなく、社員でも、迂闊な言葉をお客様に発するだけで、取引が一切中止になる可能性がある。軽はずみな一言、曖昧な回答で、会社が存亡の危機に陥る場合もある。実際、初期対応やリスク管理の失敗から倒産した企業も中小企業だけでなく、大手企業にもあることは周知の事実だ。

 企業においては、謝罪の機会も発言撤回の機会も与えられることは少ない。与えられたとしても許されることはまずあり得ない。その後の迅速かつ真摯な態度で示すしかお客様の理解を得る術は無い。それが「社会常識」であり「一般社会の掟」だろう。

 

 いつの日か、できる限り早く、政治の世界にも「社会常識」が通用する時代が来て欲しいと心より願う。いや、今さら無理なような気もしているが、それでは有権者としての資格の一部を放棄しているような感があり、何とか少しでも変化の予兆だけでも見てみたいとは思う。その機会が昨今の政治情勢から、まもなく訪れるとは思うが。

※「ベンチャー企業社長ブログトップ10位へ

※「特選された起業家ブログ集トップ10位へ