ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

全力疾走しない子供、させない親が失う人生にとって大切なもの

疾走 普通の企業がやっていることすらできない行政  2000年から2006年までの過去3回の国際学力調査(PISA)で日本は順位が下がり続けている。いわゆる「学力低下」というものだ。この結果をふまえ、行政では学習指導要領を再検討している。しかし従来同様、学識経験者と呼ばれる専門家の意見と役人のペーパーが主導権を握る机上の論理が展開されている。  企業経営に例えれば、「学力低下」は「売上低下」だ。通常、現場の営業マンが、なぜ売上が低下しているかを消費者にヒアリングし、その結果に基づき、顧客ニーズに合致した商品を様々に模索し、上司や役員が最終決定し新たな商品を生み出し売上回復を目指す。現場、消費者の声を実際に聞かない限り、本当に売れる商品が生まれるはずはない。  この視点で考えれば、教育現場における最終消費者は「子供」であり、間接的な消費者が「親」となる。そして違和感があるかもしれないが教育という商品を売る営業マンが「教師」となる。  しかし、教育については、いつもの如く机上の空論のままだ。日々、変化していく「子供や親の意識・ニーズ=消費者の意識・ニーズ」、そして、実際に消費者と日々、対峙し、商品を売っている「営業マンの苦労=先生方の本音」などは、子供や親、そして教師に対して実際にヒアリングしない限り、「良い商品=良き教育」など生まれるはずがない。いくら学識経験者で元教師の知恵を借りたとしても、かつ子供と触れ合う機会が皆無に等しい役人に想像の世界だけで売れる商品を生み出すことは不可能に近い。  もちろん、子供にどうやってヒアリングするのか、果たして明確に答えられるのかといった疑問を抱かれる方もおられるだろう。しかし、一般の企業、特に子供向けの商品を販売している企業は、子供と直接、触れ合い、模索しながら、懸命に売れる商品をつくっている。これは企業努力ではない。企業として当たり前の行為だ。「教育」という大切なものすらこれらの行為を行政が怠っている現状。企業経営の観点からは理解しがたい行為と言わざるを得ない。 ゆとり教育がもたらした混乱  過去から「知識偏重の詰め込み教育」は批判の一つとなっていた。それに呼応するため「ゆとり教育」、いわゆる「総合的な学習の時間」が2000年から段階的に始められた。  百科事典で例えてみよう。2000年以前の百科事典は100頁。第一章から第六章まであり、小学生達は6年間を要して百科事典に書かれた知識を得る。これが学習指導要領であり教科書と考えればいい。そして百科事典に書かれた内容をいかに子供たちに「理解させやすく教えるか」に教師の力量が問われていた。  そこに突如として「ゆとり教育」が始まった。百科事典100頁の中で80頁が従来通り、しかし残りの20頁は何も書かれていない「白紙」だ。その白紙に教師と子供たちは何かを書き込まなければならない時間が唐突に出現した。そして何を書き込むかについては学校に委ねられた。学校ごとに地域の文化や特性などに違いがあるという理由からだ。  教師生活数十年のベテラン教師だったとしても白紙の百科事典に何を子供たちに書かせれば良いのか初めての経験に大きな戸惑いがあっただろう。そして、今まで白紙の百科事典を見たことがない子供たちにはさらなる困惑があっただろう。ここに「ゆとり教育混乱」の大きな要因がある。  「いかに百科事典の内容をわかりやすく教えるか」というスタイルから「百科事典20頁分そのものをつくる」という大転換であり、教育現場が混乱することは開始当初からわかっていたはずだった。  しかし、教育現場の混乱や悲鳴ではなく、PISAという社会的背景も教育システムもそれぞれ違う他国同士の調査結果を根拠に「学力低下」をやっと認識し、「ゆとり教育」の見直しが始まった。企業で例えるならば、現場の営業マンや消費者の声を無視し、コンサル会社から提出されたレポートを見て、あわてて社外取締役を招聘し、対策を練るようなものだ。 子供や親の意識の大きな変化  私の長男の話をする。  我が長男は、ここ数年間の小学校の運動会の活躍を見る限り、走ることが特に苦手ではないが得意ともいえない。しかし彼は小学校対抗の長距離走大会など、様々な「走る競技」に小学校代表の一人として選ばれ、いつも全力で走っている。  私は、長男よりも短距離も長距離もタイムの早い小学生が存在するはずだと思い、長距離走大会を観覧していた同級生のお母さんに素朴な疑問を投げかけた。そして残念な答えが返ってきた。 「なぜ、いつも長男は小学校代表に選ばれるのでしょうか?」と私。 「大会前に練習するでしょ。そうすると塾に行けないから、代表選考の時、わざと全力疾走しない子供がいるんです」と同級生のお母さんは答えた。  大会前は放課後に練習する。しかし、放課後は塾に通わなければならない日がある。大会参加を選ぶか、塾通いを選ぶか。後者を選択するために「全力疾走しない」という少なくとも私には信じられない事実がそこには存在していた。  私自身の話をする。  私は、小学5年生の頃から塾に通った。私立中学を受験するためだ。ただ、なぜか足が速かった私は、小学校対抗の大会だけでなく、府や市の大会の選手に選ばれた。そして大会前には週に二回程度の放課後の練習に参加した。  当時の私は、常に「全力疾走」した。全力で走ることが当たり前であり、力を抜いて走るなど到底、意識の中に無かった。もちろん、塾に通う時間が減るなど考えもしなかった。親は内心、塾に通う時間が減ることに僅かばかり懸念を持っていたのかもしれない。しかし、何も言わず、逆に大会に参加している私を応援してくれた。 全力疾走をしないと決めるのは誰か、そしてその背景は何か  先に述べたように、少なくとも私の子供が通う小学校では、「全力疾走」しない子供が存在するようだ。その直接的な要因は「塾に通う時間を確保する」ためだ。ただ、塾に通うために「子供自ら」が全力疾走しないと決めたのか、それとも「親が全力疾走するな」と子供に言ったのか不明だが、後者の可能性が大きいだろう。  逆に、子供自らが塾に通うために全力疾走しないと決めたのであれば、私としては、世間の子供はここまで変化したのかと驚くと共に残念に思わざるを得ない。  遠因として「ゆとり教育」が関係している可能性はある。先に述べたように小学校6年間で学ぶべき百科事典は合計100頁だ。20頁は、ゆとり教育で白紙の状態。しかし、ある私立中学は合計80頁をすべて完全に暗記することを求める。また、合計80頁に書かれた情報を網羅的に駆使する能力を要求する私立中学もある。そして、私立中学の大半は白紙の20頁を問題視していない。なぜなら先に述べたように「ゆとり教育」は学校独自で内容を決めることが基本であり、私立中学は問題を出そうにも出せないからだ。  これらの背景があるにも関わらず、白紙の20頁を埋めるため、ゆとり教育は続けられた。受験に関係ない授業が存在し続けたのだ。受験・合格が最大の目標である親としては「ゆとり教育」など興味も無く、その「失われた無駄な時間」を何とか塾で補完せざるを得ないと考えるのは当然だ。それでなくとも「ゆとり教育」が開始される以前から小学校の授業だけで、百科事典合計100頁を完全に暗記することなど不可能と考えていた親は既に存在していた。だから30年以上も前の私の小学生時代にも「学習塾」というものが存在していたのである。 全力疾走をしない、させないことで大きなものを失う  今後、「ゆとり教育」は縮小の方向に向かうだろう。しかし、私は「ゆとり教育」の考え方については否定しない。教育現場・親・子供の求めるものと行政が求めたものの大きな乖離が問題なのだ。行政が「企業努力」さえすれば乖離は解消されていくと考える。  ただ、どうしても理解できないことは、塾に通う時間が減るかどうかはともかく「全力疾走」をしないという事実だ。「全力疾走」し、放課後の練習に参加することで塾に通う時間が減ることを私は否定しない。そして、それが原因で受験に失敗する可能性も否定しない。  ただ、放課後の練習が直接の原因で受験に失敗する可能性は極めて低いと思う。塾に通うことができない期間が半年も続くのなら話は別だ。しかし、放課後の練習は数週間であり、それも一週間に二度程度だ。  親が指示したのか子供自身が決めたのか、どちらでもいい。ただ「全力疾走しない」という気持ちを持つこと、そしてそれを実際に行動してしまうことから失うものの大きさは、極論すれば受験で不合格となることで失うことよりも大きいと私は考える。 倫理観、価値観という人生にとって最も大切なもの  小学生に価値観や倫理感を求めることはできない。親が教えてもなかなか理解できにくい年齢でもある。小学生から中学生になり、そして大学生になる過程で、学校や教室で学ぶ以外のまったく異質の経験を重ねていく。その経験や出来事にどう対処するかが、個々が持つ倫理観であり、価値観だ。自ら失敗を重ね、あるいは誰かの振る舞いを見習い体得していくものだ。  「やってはいけないこと」・「こういう時はこうするべき」という行動・判断基準は知識でも知恵でもない。まさしく社会を正しく生き抜くための自らの規範だ。いくら知識が人より数十倍多くとも、その知識を正しく使うことができる規範が無ければ、間違ったことをしてしまう。いくら有名大学を卒業しても、大人という社会に出れば、過去に教えられたことがない事柄に何度も遭遇する。そこでどう対処するかは個々の規範が左右する。それほど人間にとって倫理観や価値観は重要なものであると私は考える。  極論と思われるかもしれないが、小学生という年齢だとしても「全力疾走しない」という気持ちを持つこと、そして実際に行動するということは、明らかに間違った倫理観、価値観、行動規範だと私は考える。そして、一度、間違った規範を犯してしまうことで失うものは年齢に関係なく大きく、その考え、行いを誰かが間違っていると教えない限り、似たことを繰り返す可能性は高い。もし、親が「全力疾走するな」と言ったのならば、その時点で親は大切なものを既に失っているのかもしれない。  狡猾な人間は今も多数、世間に存在している。ただ、彼ら彼女らも、いつか、どこかの時点で最初に間違ったことを行い、それを誰にも指摘されないまま大人になり、人間として通常では理解できないこと続けている。  まっとうな行動規範を一生、持つことができる人間になることを考えれば、一度くらいやり直しが可能な受験に失敗してもいい。過去に行った間違った生き方だけは、やり直すことができないのだから。 ※「ベンチャー社長ブログトップ10位をクリックで確認 ※「特選された起業家ブログ集トップ10位をクリックで確認 ※「新進気鋭アーティスト:鉄人Honey、下記画像をクリック」