ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

他人に車のドアを開けてもらうことを当たり前と考えた時、既にその人の何かが欠落していると私は思う

 ここ1ヶ月程、大手企業の方々と接する機会が増えてきている。もちろん、今までも何度もあったが、密度が濃くなっている。

 例えば、大阪の我々の会社とは比較できない程の大企業のトップとお会いする場合、通常は私が出向く。当たり前の話である。

 ただ、久しぶりにトップとお会いする場合、ゆっくりと意見交換をしたい場合、あるいは相手様から私に相談などがある場合、大阪の大企業トップは、京都の支店まで出向かれ、そして私も京都の支店へお邪魔する。お互い、歩み寄るといったところで、本来は私が出向くべきだが、相手様も気を使っておられることを考え、拒むことはしない。

 大阪の大企業トップはもちろん、大阪から専用車で移動される。そして私もその専用車に便乗させていただき、会合場所などへ移動する。この場合、運転手の方にドアを開けていただき、後部座席にトップと座ることとなる。

 そして、会合終了後、私の会社や自宅まで専用車で送っていただく。もちろん降りる際は、ドアを運転手の方が開けられ、私は降りることとなる。ここらあたりは会社の規模などを気にして、自分でドアを開けるのではなく、流れるままに任せた方が良いことも過去の経験などから理解している。

 今日も、同様のことがあった。わざわざ私の会社まで車で来られ、そしてある企業を私が紹介し、そして商談終了後、私の会社まで送っていただいた。ドアは助手席の方が乗る時も降りる時も開けられた。もちろんドアを閉める時も。

 私には、まだまだ他人の方にドアを開けてもらうような立場には無く、いつも違和感が残る。そんなことをされるような人間ではまだまだ無いと思っていることが最大の要因だ。

 少し話を変えてみる。

 私の祖父は、ホテルチェーンの経営者であった。そして年齢を重ねると共に、安全という観点から運転手付きの社用車を購入した。祖父は当初から必要ないと反対していたそうだが、結局、購入に同意された。京都で初めてベンツを購入したのは私の祖父の会社である。

 私の祖父もドアの開閉は運転手に任せていたと思う。ただ、通常とは決定的に違うことをされていた。

 会社から自宅への道のりで、歩いている近所の方を見ると、常に声をかけ、同乗していたと、私の母から聞いた記憶がある。

 ドアの開閉を他人に任せることや、自分の専用車が存在していることに優越感を覚えることも無く、常に窓から外を眺め、近所の方がおられれば車を停めて、近くまで同乗していたということ。もしかすれば少し迂回して近所の方のご自宅まで送られたこともあったのかもしれない。

 まだまだ専用車など持つ立場にも規模にも無い私の会社だが、もし私が運転手付きの専用車を乗ることができる立場になった場合、祖父のような態度をとることができるだろうか。

 いずれにせよ、他人にドアを開けてもらうことを何度も経験すると、人間というものは、まずは優越感を覚え、そして当たり前のことと思うようになると私は考える。

 私もそうなってしまう可能性を否定できない。ただ、まだまだ現実的なものではなく、今から想像する必要は無い。

 ただ、今の日本には、他人にドアを開けてもらうことを当たり前のように感じている人が多数、存在すると思う。そして私の祖父のように、歩いている方を途中で車を停めて、乗ってもらうなどという人は、ほとんど存在しないだろう。

 もちろん、「他人にドアを開けてもらうべき立場」というものは存在する。そうでなければならない立場の方も存在する。また、子供の頃から他人にドアを開けてもらう、運転手付きの車を保有している家族は少ないとは思うが存在するだろう。ただ、この場合も多くは、両親がそういった状況を築き上げた結果に過ぎない。

 他人にドアを開けてもらう立場になること。それは本人の努力と多くの方々に支援された「結果」の一つに過ぎない。ただ、他人にドアを開けてもらう日々が繰り返され、時が経つと共に、その立場になった経緯を忘れ、自分の力のみで、今の立場があると人間は思いがちであると私は考える。

 他人にドアを開けてもらうことに慣れてしまう、自分は他人にドアを開けてもらう人間なのだと思い込んだ時点で、「その人の何かが既に欠落している」のでは、と私は考える。もちろん、欠落してしまった何かは、人それぞれだろう。

 私自らもこのことをこれから、しっかりと心に刻み込んでおきたいと考えている。何かが欠落した人間とならないために。

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