ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

自然栽培農家:木村秋則氏との出会い、そして今、思うこと

 明日、2006年12月7日に自然栽培農家「木村秋則氏」、彼の栽培手法確立までの苦闘が、夜10時のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介される。この機会に私と木村秋則氏との出会い、そして放送前夜の今、私なりに思うことを書くこととする。 最初の出会い:木村氏と私の父  青森県津軽地方の地元新聞である「陸奥新報」に掲載されたものが下の写真。今から約13年前の1993年8月2日に「農薬 むかし・いま 未来」と題した特集記事の中で木村氏の畑で「私の父と木村氏がリンゴの樹を前に語っている」風景が掲載された。  この頃から、木村氏との出会いは始まっていた。最初の出会いは私の父。当時、既に農薬や化学肥料、堆肥なども一切、使用しない木村氏の自然栽培農法は、ほぼ落ち着いた状態となっていた。収穫量も通常の農薬を使用したリンゴの70%程度までに向上。やっと安定的な栽培が見える状態となっていた。  しかし、木村氏を含め、リンゴ農家には共通の悩みがあった。それが「フラン病」。青森県では1970年代に「ふらん病まん延防止条例」という条例を設置した程、厄介な病害。  下の写真の中央部分の茶色に変色している部位がフラン病に罹病したことを示している。このように、剪定切口や傷口から病原菌が侵入し、リンゴの幹や枝が内部から腐り始め、腐朽がリンゴの樹全体に蔓延していく。そして樹勢(樹木の活力)が衰え始め、リンゴの樹が枯死(枯れて死んでしまう)してしまう可能性が高くなる。一度、フラン病にやられてしまえば、「処置するより伐採し、他の樹に蔓延することを防ぐ」というくらいの破壊力を持った病気。もちろん木村氏も「フラン病」に悩んでいた。  この時点で、木村氏の農法を成功させたいという父の執念が、僅かであるかもしれないが今の木村氏の確固たる存在へと繋がると言えるかもしれない。そして父の執念は私へ引き継がれていく。 (木村氏のリンゴのフラン病罹病写真) 泥巻き法  1970年代後半から「泥巻き法」という民間治療法を多くのリンゴ農家の方が試みられていた。「フラン病」に侵された周辺に泥を塗り、ビニールやポリエチレンなどのシートで巻き付けるという手法だ。しかし、高所などに泥を塗るためには二人がかりでやらざるを得ない場合が多く、泥巻き法は時間や手間がかなりかかるということや、すぐに剥がれ落ちてしまうなどの難点があり、根本的な解決策ではなかった。しかし、農薬を使わない木村氏にとっては、フラン病対策の唯一の方法・選択肢は「泥巻き法」しかなかった。 (実際に木村氏が自分のリンゴの樹の幹や枝に泥巻きしたもの) 泥巻き以外の対処策を模索  残念ながら「泥巻き法」は完全に「フラン病」を克服することができなかった。一時的にフラン病病害拡大を防ぐことができたとしても再発する場合も多々あり、木村氏は途方にくれていた。そんな時、ふとしたきっかけで、木村氏と出会い、私の父は木村氏の畑に出向いた。父にとって生まれて初めてのリンゴ畑。もちろん、そこら中のリンゴの樹に「泥が巻かれていること」に疑問を抱いた。  「これは何ですか、なぜ土を幹に塗っているのですか?」という父の一言、そして、あと一歩のところで自然栽培農法を確立できる段階にありながら「フラン病対策」に悩む木村氏の話から、この病害克服の重要性を父は初めて知った。そして、木村氏の無農薬栽培の完全なる成功に協力すべく「泥巻き」に変わる手法を木村氏と共に模索する毎日が始まった。これが冒頭の陸奥新報の記事と繋がる。まったくのリンゴ栽培の素人である父が、農家の皆様とまったく違った視点で、かつ農薬成分を一切使用しない病害対策を考えたことにメディアも着目した。重複になるが今から約13年前のことだ。  1993年は、私が米国のビジネススクールを卒業し2年ぶりに帰国した年。自宅に戻っていた私は、なぜか頻繁に青森の木村という名前の方からファックスが毎日のように送られていたことに、少しばかり疑問を持ちながらも、深くは考えてはいなかった。ただ、ファックスの内容だけは、目を通していた。「木村さんという人は独特のきれいな字体だな」とも思っていた。 (その後、木村氏が学生時代「筆耕部」というクラブに属していたことを知り、彼の独特の自体の理由が判明した。)  そして、父が常務をしていたホテルへ93年6月に就職。しかし、11月には青森へ単身で赴任することを命令された。ホテルマンとしての私は、実質半年。青森という私にとって初めての雪国での一人暮らしに準備に約1ヶ月程、要した。 青森へ赴任  東京から最終便の飛行機で青森空港へ到着した日。市内へ向かうバスの窓に映る真っ暗な雪景色に、1年前の米国滞在時とのギャップに僅かばかり挫折感のようなもの、いや途方に暮れたといった感を抱きながら、弘前駅近くのホテルに到着。そして、この日から約5年間以上、私は雪国で生活することとなった。 (木村氏のリンゴの幹切口に塗布剤を刷毛で塗っている私)  我々が考え出したフラン病対策は、人間も口に入れることができる「ワサビの抗菌作用」を利用したもので、私が青森に赴任した時には、木村氏と父の努力で、ほぼ開発終了。既に93年秋には特許も「発明者」として私の父と木村氏と連名で出願(出願者は私の父単独)されていた。ただ、商品化や製造などはまだまだ手付かずの状態。私が単身でゼロから商品化を任された。 少しずつ、木村氏の力を借りながら  当初、まったく土地勘の無い私は、木村氏の人脈に大きく依存するしか手段が無かった。塗布剤製造工場も木村氏、木村氏の奥様、そして父や私だけで手作りで完成させた。また、知り合いの農家や大学の先生を紹介いただき、少しずつ、ワサビの塗布剤は、津軽地方で知れ渡るようになっていった。そして、開発が終了したこのワサビの塗布剤樹木の味方を剪定後の切口に塗布することで、木村氏のリンゴ栽培はさらに安定化していった。木村氏も最初は「ワサビの抗菌作用」を理解しながらも開発当初、半信半疑だった塗布剤だったが、今では、彼の栽培に欠かせない解決・向上策の一つとなっている。 (製造工場建設作業後、木村氏、奥様と私で食事をしながら団欒。木村氏・奥様とも当時は、まだまだ黒髪だった。)  しかし、京都人であり、慣れない津軽弁に格闘する日々は、そんなに順調ではなかった。一軒ずつリンゴ畑を回り、剪定切口などに塗布剤を無料で塗るサービスを行い、数ヵ月後に再訪。効果があれば買ってもらうという毎日を約1年間過ごした。もちろん、青森だけでなくリンゴを栽培している東北地方すべての県のリンゴ畑を車で回った。  そんな私の姿を木村氏や彼を支える友人は暖かく見守り続けていただいていた。週2、3回は、木村氏や彼を支える友人と町で酒を飲みに行き、その場でも様々な方々を紹介いただいた。また、営業に疲れた時は、木村氏の畑で世間話をするためだけに通っていたことも多々あったが、いつも木村氏と奥様は栽培・作業の手を休ませ、私の相手をしていただいた。 それから、約4年  1993年の冬に青森に赴任し4年後の97年。ビジネススクールで経営を学んだが、リンゴについてはまったくの素人だった私。そして、人脈が皆無に等しかった私。しかし、木村氏や周辺の皆さんのご協力、4年間の私なりの努力の結果、地元紙に毎週、広告を出すまで樹木の味方の認知度は高まった。 (97年春頃、広告写真撮影後の記念撮影。撮影したカメラを中心に、写真左はカメラマン、中央に木村氏、右は当時生まれたばかりの長男を抱いている私)  そして1998年の終わり頃、私は京都へ戻り、塗布剤販売だけでなく、天然記念物など樹木そのものを環境に配慮した独自資材活用による「樹木保護事業」を展開するまでに至り、今では日本最大級の装置を使った「最新非破壊画像診断」といった当社独自の事業や多分野の緑化事業を展開するまでに至っている。  93年秋に木村氏と父を発明者とした「ワサビの抗菌作用を利用した剪定切口等に塗布する保護方法」は、「泥巻き法」の大幅な時間短縮、他の農薬系塗布剤より癒合組織成長が早いといった点が評価され、米国・韓国で特許認定。2002年、出願から9年後、やっと日本でも特許が認定された。 今、思うこと。  明日、夜のNHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に木村氏は出演される。今までも様々なメディアに紹介されてきたが、今回の番組が最大規模のものとなる。  うれしい反面、複雑な思いもする。目を閉じれば、初めて木村氏と出会った日、酔いつぶれた木村氏を何度も介抱した夜のひとコマ、そして青森から京都へ戻る時、木村氏を筆頭に50人近い方々に送別会を開いていただいた夜など、数限りない想い出が浮かんでくる。特に社会人として、何でも吸収できた20代後半から30代前半の私の人生は、「青森」、そして「木村秋則」という人間が大きく存在している。  明日の放送で、「木村秋則」という人物、生き様を初めて知る方々が日本中に存在することとなる。多くの方が木村氏のリンゴにかける想いや情熱に触れ、人それぞれ、様々な思いを描くと思う。ただ、青森に滞在し、それから約10年。毎年、秋の収穫時期には我々も木村氏のリンゴやリンゴジュースを販売させていただいている。そして、彼が無農薬栽培をすると決意した数十年前から、彼を協力し続けたご家族や彼の友人という大きな存在。  主人公は木村氏だろう。しかし、木村氏を何十年も支えてきた脇役の存在を、決して誰も忘れてはいけないと私は思う。そして、木村氏こそ、多くの脇役の方々の思い出を心から思い描きながら、放送前夜の今、一人、酒を飲んでいるはずだ。  今も木村氏が無農薬栽培実現のために欠かすことができない存在となった樹木の味方。今では、全国各地の農家の皆様だけでなく、剪定切口保護や各種公共事業など都市緑化の採用いただくまでに成長した。これも、父との偶然の出会い、そして木村氏の協力が無ければあり得なかったこと。  最後に、私から木村氏へ今までの御礼も込めたメッセージを書き、終わりとしたい。
 木村さん、今までお疲れ様でした。そして番組出演、心よりお祝い申し上げます。無理せず自然体で、これからもご活躍下さい。私も木村さんとの5年間が忘れられない人生の大きな一場面であることはこれまでも、これからも変わりません。  今回の番組出演を契機に多くの方々が、自然の偉大さ・複雑さを再認識され、自然や環境、食の大切さ、そして樹木の存在意義を改めて考え直す、見つめ直す方々が増えることを心より祈念しています。
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