小池環境相殿、森林整備のご経験をお願い致します。
今月2日のネット配信ニュースで、非常に違和感を覚えた記事があった。小池環境相が閣議後の会見で、
ニートを活用することで「国づくりと人づくりを同時に行うことができる」と意義を強調した。
とのこと。このニュースを見た後、「環境省」のサイトにアクセスしたが、その時点では何のソースも無かった。しかし、今日、再度、アクセスしたところ、「自然資本 百年の国づくり」(案)」と、掲載されpdfファイルも見ることができた。
この「案」を基本的に誰がつくったのかまでは現時点では把握できていない。もしかすれば、私が副理事長を務めさせていただいているNPOの理事のお一人が環境省の中央環境審議会の委員をされており、その先生が関わっておられるかもしれず、ご迷惑になるかもしれないが、あえて私なりの考えを述べてみたい。
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さて、この「自然資本 百年の国づくり」(案)」とは文字通り、自然を有効な日本の資本として着目し、今後100年間において次の世代へも堂々と引き継げる自然環境・都市環境を整備していくための基本となる案である。
この案では、
1)森林整備:若者の自己実現と結びつけて推進(「ニート」と呼ばれる人々に手応えのある参加の場を提供)
2)自然の営みと人の知恵を結びつけた都市づくり
(緑、風、水、生き物を都市の骨格とする)
3)太陽エネルギーの徹底活用
(太陽エネルギーの降り注ぐ場所はすべて活用)
この3つが骨子となっている。そして、それぞれに提案が付加されている。( )部分である。
私は、まったくこの案の基本目的には異論は無い。そして2)と3)についても極論を言えば特に目新しい内容とは言えないと思うと共に、今後の日本の方向性としては、予算付けやその他様々な施策が反映されることは我々にとっても、そして日本にとっても良いことであると私は考えている。
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私が違和感を覚える点は、詳細はご紹介したサイトのpdfファイルを是非ともご覧いただきたいのだが、「森林整備」のみが今までとまったく違う方向、あるいは他の2)・3)と比較し、下記のように、かなり説得力に乏しいという点である。「案」では、下記のように記載されている。
「ニート」からの脱却支援の一つとして、作業体験や交流の機会を提供する社会参加プログラムが挙げられている。森林での作業体験は、森林が持つ心の健康への効果と相まって、「ニートの自立支援」に有効と考えられる。
これだけが、「森林整備」への対策である。私としては、森林整備への対策ではなく、ニートと呼ばれる方々への対策では、と読み取れる感がある。また「森林整備」についての定義も不明確である。しかし、これについては今回の私の論点ではない。
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私は、「ニートと呼ばれる方々」との直接の交流も無く、何も議論する立場に無い。ただ、知っていただきたいことは、1)森林を整備することと作業体験は違う、2)通常の大学生ですら、森林に入ることを躊躇う学生が多い、という2点である。
森林整備と作業体験
我々も、樹木という最も身近な生き物と家族や地域の方々と共に触れ合い、環境について再度、何かを感じ取ってもらうという体験プログラムを実施している。簡単に言えば、教育施設に必ずあるサクラなどを対象に、子供たちやお父さん、お母さん方と共にサクラの回復作業体験をしていただくというもの。子供時代には、のこぎりやスコップを使って遊んだ経験があるであろうご両親も、親の年齢になれば久しぶりの経験であり、かつ通常では見ることのできない、サクラの根を見るプログラムなどは、様々な驚きや発見がある。
しかし、最終的に回復作業を実施するのは我々である。体験プログラム後に我々単独で本格的に回復作業を実施する。専門的な作業には危険性がある、かなりの労働力が必要といった理由からである。
換言すれば、「森林整備」にも専門的な能力が必要であると同時に、相手が生き物であるため、年間を通じて、接していかなければならないという点で、「作業体験」ではなく、完全に専門的なスキルを身に付け、作業に「従事」しなければならないということである。
私は、「作業体験がニートの方々の自立支援になるかどうか」については、専門家では無いため、議論できない。ただ、「木育(もくいく)」といって、木とふれあい、木に学び、木と生きるという観点からの取組みも存在している。昨今では、昨年の台風で倒木した北海道のポプラから椅子やテーブルを作るという事例がある。皆で協力し、思考錯誤して椅子などを作る過程を重視しているものともいえる。簡単に言えば、ホームセンターで売っている材木を使って椅子を作ることと、目の前にある倒木した木から椅子を作ることを比較すれば、どれだけの工夫や時間が必要か、想像いただけると思う。この過程で学ぶこと、感じることは個々それぞれ多々あることに異論を唱える方もおられないと私は思う。
よって、森林を対象にした作業体験は、私の経験上も含め、様々な効果があると言える。しかし、これはあくまで体験であり、森林整備とは、まったく次元の違う話である。農業体験も同様である。体験することと、農作物を生み出すことはまったく違う。
もし本当に、小池環境相が、
ニートを活用することで「国づくりと人づくりを同時に行うことができる」と意義を強調した。
と発言され、その背景に、この案の内容だけであると限定すれば、あまりにも森林整備に従事している方々に対し、失礼であると同時に、実現性に乏しいものであることを理解されていないと私は思う。自然と対峙するということは、そんなに容易なものではない。
だから、もちろん極論であるが、私は、環境相に一度、森林整備に一年間ほど従事していただきいわけである。そうすれば、この案が実現性に乏しいことに気付かれると同時に、本来あるべき森林整備の方向性も明確になると私は考える。
森林に入ることを躊躇う学生
我々は仕事柄、農学部の学生の方々や先生方とかなりのお付き合いをさせていただいている。私は過去にも書いた記憶があるが、ある教授が嘆いておられた。「森林実習をさせようにも、森に入ることすらできない学生が多過ぎる」と。
もちろん、すべての学生が森に入ることができないわけではない。ただ、現在の教育は、高校・中学校・小学校という順で、徐々に自然と触れ合う機会が少なくなっているのが現実である。受験勉強にスコップや軍手は必要無いということだ。いずれにせよ、「森に入ることすらできない学生、森を怖いと思う、土で汚れることが嫌と思う学生が少なからず存在している」という現実だけが残る。
換言すれば、環境省の管轄かどうかはともかく、現在の教育において、「自然と触れ合う機会、本当に自然と対峙する機会」が乏しいという現実を認識し、教育の段階において、大学生あるいは社会人になる段階までに「土にまみれること、汚れること、汗をかくこと」などを躊躇しない素地を作り上げる人間を輩出していくことも重要であると理解し、教育内容に含む必要があるということである。
ニートと呼ばれる方々と関係無く、少なくとも「森林整備」というものは、泥だらけになり、汗まみれになり、そして年中、森と共に生活できる人間でなければ、整備などは到底、できないということである。
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以上のように「体験と整備に従事するという点はまったく違う次元である」・「躊躇無く、自然と共に暮らし生活することが可能な人間を形成することは、現在の教育では達成されていない」という2点において、今回の「案」は残念ながら、私にとっては現実性に乏しいと考える。換言すれば、この2点を認識し、可能であれば環境省だけでなく横断的に各関係省庁が対策を講じれば、今回の「案」に対する対案が確立するのではと私は思う。
今一度、現実をご理解いただき、再考いただきたい。
そして、「百年の国づくり」は環境省が先頭に立つことも必要であると同時に国家として取り組むべき課題であるということもお考えいただきたい。