ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

金太郎飴にならないためにできることは?

数週間前に、母校の同窓会誌が送付されてきました。私の「経歴」をご覧いただくと大学・大学院まで掲載されていますが、実は、中学・高校とも卒業大学と同じなのです。いわゆる中学受験をして、合格し(実際は補欠入学でしたが)、その後、大学の受験勉強をせずに、ストレートに何の苦労も無く、大学へ入学という流れです。

(ちなみに、大学へあがるためには一定レベルの成績を維持しなければなりませんので、少しは苦労はありますこと念のため)

同窓会誌とはこの中学・高校が合体したもので、「中高同窓会 2005」というタイトルでした。さて、この同窓会誌に来年4月から開校される「小学校」のコンセプトや学校のデザインが掲載されていました。もちろん、報道などで私の母校だけでなく、いわゆる母校のライバルである私立大学も小学校を新設するといったことは知っていました。いずれにせよ、これで幼稚園から大学、大学院まで一貫したこととなります。

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私の場合、中学から大学まで、ほぼ同じ仲間で、いわゆる学生生活を終えたことになります。大学では、日本中の様々な人間が大学入試という関門をくぐって入学するわけですが、結局、大学内でも中学・高校出身者で固まっていました。当然のことかもしれません。既に中学から6年以上の付き合いのある友人がすぐ近くにいるわけです。

私は学生時代、ボランティアでキャンプリーダーをやっており、どちらかというと大学よりもこちらの活動が生活の軸となっていましたので、他の大学の学生との輪がある程度、ありました。しかし大学の授業などはやはり、同じ中学・高校出身者と一緒に勉強することが過半でした。

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さて、今、思えば、私の中学時代、高校時代は、言い過ぎかもしれませんが、ある観点では少し異常であったかもしれません。

いわゆる私立の中学・高校です。同級生には京都の上場企業の社長の息子や娘も多くいました。ある程度、入学するには難しい中学なので、表現が難しいですが頭脳・知識もある水準を保持しています。恐らく、家庭・社会的存在・背景も似たような感じだったと今では思っています。

例えば、高校時代。この頃は誰でも「見かけ」を気にする年頃になります。制服が無かった中学・高校なので、有名ブランドがバーゲンセールをする日には、一部の友人達は朝から店に行って買い物を済ませ、それから高校へ行くといったことが多々、ありました。普通の高校では信じられない光景かもしれません。

結局、似た者同士が中学から大学まで一緒に生活したということです。換言すれば、他の世界を知らないということ、「世の中とはこういうもの」という考え・価値観が、ほぼ全員、同一だったといえるかもしれません。

私が大学卒業する頃はいわゆる「バブル全盛期後半」でした。就職活動も苦労することなく、私が卒業した経済学部では、私以外の学生は全員、大手企業に就職していました。私は、一人、米国留学したわけですが、自分で学費を稼いだわけでもなく、大学・大学院卒業、そして祖父が設立した企業へ就職、という路線がほぼ高校生くらいの時点で確定していました。

20代後半の紆余曲折が私の人生に無ければ、それこそ、「世の中はこんなものか」となめてかかるような「世間知らず」の男で終わっていたに違いありません。

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上述した新設される小学校。この小学校に入学する、あるいは入学できる子供たちも、恐らく家族やその社会的背景、存在は、ほぼ同様ではないかと私は考えます。きつい表現かもしれませんが「似たもの同士」が6年間という長期間、小学校生活を経験するわけです。そして、中学へと入学し、大学生活を終える可能性があるわけです。

小学生とは、「自我が形成される最初の重要な時期である」と私は考えています。できる限り、多様な価値観を持った人間と触れ合う必要があります。世間には様々な職種があり、様々な家庭の考えがあり、そしてこのような考え・生活を見て、そして中に入って無意識の中で受容し、自己を形成していく、それが小学生にも大切な事柄ではないかと私は考えます。

私の考え過ぎかもしれませんが、新設される我が母校の「小学校」。入学される子供たち、入学させる親たち、そして受け入れる先生方。是非とも、「金太郎飴」のような子供たちを輩出していくことだけは避けていただきたいと「金太郎飴」になりかけた私としては願っています。

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さて、少し話を変えます。

私は過去記事で、「競争社会を生き抜くために(2)」というエントリを書きました。今の小学校では男の子でも女の子でも「さん」付けで呼ぶ、運動会には1位、2位などの区別がない、という事例を出し、このような子供を傷付けない過大な教育現場のアプローチのまま、突如として「勝ち負け・優劣」が尺度の一つとなるビジネス・社会人の生活に至ることは、非常に危険ではないかという提議でした。

この記事の中で総括として、

いつの日か、そして誰にでも確実に訪れる「競争・勝ち負けを経験するという状況」。私は、できる限り、人格が形成される時期から、競争・勝ち負けを体験し、想像力・創造性を養う、この2点が必要だと思います。そして、残念ながら、今の社会は、この2点に加速しながら逆行していっていると思えてなりません。

と書いています。

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今日、ある大学の就職課に勤務している私の中学時代からの同級生と会います。少なくとも私が学生時代の頃は、「フリーターニート・引き篭もり」という言葉はありませんでした。「フリーターニート・引き篭もり」に近い状況の学生が私の頃にもあったかもしれませんが、少なくとも当時、社会的な問題にはなっていませんでした。

就職課の彼が言うには、就職しようという意欲を抱かせることに2年間が必要で、3年生になって初めて「就職」、「職に就く」という人生における意味合いを行動に示し、そして就職活動をしていく学生が多く、それでも何割かの学生さんは何をすれば良いか分からぬまま卒業されていくとのこと。

この点についていろいろと同級生やその他、教育関連の方々と話しましたが、結局、小学校から大学入学までに至る過程において、「教育現場・社会・地域、そして親」これらのすべてが様々な形で絡み合って現在の「大学生気質」というものを形成しているのではないかという曖昧な答えしか出ませんでした。

私の子供たちも、これから小学生、中学生になります。そして大学生になりたい子供は大学に行かせる予定です。いずれにせよ、私自身がどうすることもできないものが「教育現場であり、社会全体」です。家族でカバーできることは、できる限り行いますが、それ以外は他に委ねるしかありません。もちろん私の子供自身がどう受け止め、行動していくかも重要ではあります。

しかし、私の子供だけでなく、今の子供たち、そして学生さんが、これからの日本を背負うわけです。これからの日本の将来のためにも、今の子供たちだけ無く、教育現場や社会、地域の現状を十分に理解し、多くの方々が個々でできることをしていく必要があると私は考えます。

補足:

少し、今回のエントリのタイトルと文章内容が異なるかもしれませんがご容赦下さい。

また、表現内容に違和感を覚える個所もあるかもしれませんが、その点はコメント欄等にてご指摘下さい。