ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

自然との共生:サル出現をめぐって

サルの出現

ここ数ヶ月前から、私の会社周辺には「サル」が出現しています。毎日、見かけるといっても過言ではありません。実は、私の会社の周囲は山に囲まれています。そして緑化関連企業ということで、会社の中にも多様な樹木や植物が存在しています。換言すれば、最近まで身近な山にサルは存在していたが、我々が存在する地域まで足を踏み入れなかったということでしょう。

サルが住宅街、あるいは人間が住んでいる空間まで出現したということは、サルの生息空間である広葉樹林や餌がなくなったなど様々な原因があると思いますが、動物学の専門家ではない私には何が原因かは言及できません。ただ、「サル」達は常に空腹であることは事実です。彼らが暇だから人間が住んでいる空間を見物に来たとは到底、思えません。

サルの被害:猿害

一般的には農家の方々による農作物をサルが食べてしまうことを想像しますが、私の会社周辺には農家の方々はおられません。農作物をサルが食べるというよりも、屋根から屋根を10数匹のサルの集団が移動し、とにかく食べられるものを見つけ次第、口にしていくというのが現状です。

そして最近では私の会社周辺では食べるものが無くなった、あるいは見つからなくなったという理由からか、数百メートル先まで集団で遠征しています。通勤途中にサルを見かけることもあります。遠征先近くの駄菓子屋さんのおばあちゃんの話では、店のドアをサルが開けて、とにかく食べられるものをすべて持っていってしまったことがあったそうで、その後、ドアに鍵をかけるわけにもいかず、かつ常に見張っているわけにもいかず、本当にお困りの様子でした。高齢の方でもあります。

さて、私も会社や道で数メートル先にサルの集団に遭遇したことが何回かあります。私は逃げました。非常に恐怖感を覚えました。特に子供の頃に犬に噛まれた経験があり、今でも鎖につながれていない犬は近寄りがたいものがあるため、このことも影響したのかもしれません。ただ、生きるために必死なサル達にとっては、もう人間など眼中にもない程の迫力がありました。

もちろん、この現状を行政も知っており、「サルにご注意」といったちらし配布がなされたり、先週はとうとう警察まで駆けつけるといった事態にまでサルの出現は「日常化」しています。

「お猿さん」から「サル」へ

我々が動物園に行くと必ずといってもよい程、見るのがサル山。今はどうか不明ですが、観光資源としてサルに餌をあげたり、またサルが芸をしてそれを見物して楽しむなど。この時点ではサルは「かわいい」・「愛らしい」、つまり「お猿さん」という存在に過ぎません。この段階ではサルへの恐怖心などまったく無いでしょう。

しかし、今でも猿害に困っておられる農家の方々、そして今、我々のようにサルの出現が恒常化している状況では、「お猿さん」という曖昧な存在から「サル」という現実味をおびた存在へと変化しました。そして、猿害にお困りの農家の方々のお気持ちも少しは理解できるようになったわけです。

自然との共生などあり得るのか?

私は、いつも言っているように「自然との共生」という言葉は好ましいと思っていません。大きな意味での生態系では人間も動物も植物も含まれており、その大枠が自然ではないのかという点が私の持論です。

自然との共生という表現は人間が共に自然と生きることが可能な社会を目指そうといったイメージがありますが、今回のサルの出現で考えさせられることがありました。「人間とサルが共に生きることが可能な社会」とは何かということです。サルが餌を求めて山から下りてきた理由から追求するといった議論は、今回はしません。

日常生活に我々にとっては良くない影響を与えているサルの出現という現実。突如として生活の敵という「お猿さん」が「サル」に変化したわけです。今までプラスの存在であったサルがマイナスの存在へと化した現実をどう捉えるか。単純な自然保護愛好家ならば、家の前にサルの餌を置いたり、山に戻ることができるような対策をとればよいなどと言われるでしょう。

しかし、店を閉めざるを得なくなっている駄菓子屋のおばあちゃん。そして、夜に帰宅するときに周辺にサルがいないか恐る恐る確かめなければならなくなってしまった私。現実を知り、体験している人間にとっては、家の前にサルの餌を置いた瞬間に毎日、サルが来てしまう、山に戻るまで待ってはいられない、といった思いしかありません。

誰が加害者であり被害者なのか?

環境問題というものは非常に難しいものです。ミクロで見ればサル出現は、サルが加害者であり、人間が被害者かもしれません。しかし、今まで山で生活が可能であったサル達は誰の、何の被害を受けて人里まで出没せざるを得ない状況になったのか。

サルから論点を外しましょう。人間は自然を破壊していることは事実でしょう。そうでなければ住居をかまえることもできません。そして、太陽や土壌の力で農作物をつくり毎日の食事が可能となっています。結局、誰が被害者であり、誰が加害者であるかが問題ではなく、「加害・被害の程度」が問題ではないのかと私は考えます。そしてこの「程度」に人間だけでなく動物や植物も含め、それぞれに差があるということです。

今回のサル出現は、人間は何らかの形で、過去から彼らの本来あるべき住みかに対して加害しているという意識もなく、またサルが被害を受けているという認識もなかったのかもしれません。ただ、サルにとっては積み重なった被害の程度の大きさが甚大なものだったのでしょう。しかし、この議論すらサルに聞いてみなければ核心は掴めません。

ただ私が言えること。私は今回、「サルの出現」という経験をしました。ニュース等のみで知っていたサルの民家出没といった内容を実際に体験しているわけです。世間には環境汚染だけでなく、事故や事件など様々な「被害者」が大勢おられます。人間だけでなく生き物すべてにおいても言えるでしょう。見る・聞くだけでなく実際に問題に接することがない限り、あるいは被害者・当事者になってはじめて、議論をする立場にあり、その議論の正当性・説得力も強いのではないかという点のみは言えるのではないかと私は考えます。