ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

私が思うブログとは(3)

忘れていたこと

今回で最終としたい「私が思うブログとは」。

このシリーズで、様々なコメントやTBを頂戴した。

それぞれ、かなり長文ではあったが、多くの方に読み込んでいただき、かつ示唆に富んだご意見を頂戴した。

私がこのシリーズを書く過程、そして、コメントを読み、それぞれの方々のコメントについて返信を書きながら、ふと自らが忘れていたことを思い出した。

それは、ブログには、

書き手と読み手が必ず存在すること、

それを意識し、

両者の考えや気持ちが合致したいという思い・願いを持つことが、

良質なブログを作り上げる第一歩、

ではないかということである。

書き手の思いだけを日々、連ねることをもちろん否定はしない。

また、読み手を想像し、その「ツボ」にはまるような内容を書き続けることも否定しない。

どこかの首相のような発言かもしれないが「人それぞれ」なのである。

しかし、

相互のコミュニケーションが、

目に見えた形で存在することが、

書き手にとっても、読み手にとっても、そして、何らかの形で初めてブログに来訪する第三者から見ても、

活気あふれるブログであるということ

には多くの方は同意いただけるのではないだろうか。

(ここまでは曖昧であるが、少し読み続けてほしい。)

活気あふれる・良質なブログとは

私は、自らのブログ開設当時、意識的に「コメントしにくい」ブログスタイルを目指していた。つまり、読み手の存在をほとんど意識せず、自らの思い・考えだけを熱心に書いていた。

(かなり過去から、私のブログをご覧いただいている方にはご理解いただけると思う。)

しかし、ブログ中期から、読み手の存在を意識せずに書き続けてきても、読み手の方には、自らの意図や思いが、伝わってきたのでは、という手応えを感じる時があった。

それが、「まさかコメントやTBを頂戴するとは思わないエントリー」に、多くの方からコメントやTBを頂戴した現実を目の当たりにした頃である。

かなり上述した私の考えと相反するかもしれないが、

書き手が読み手の存在を意識せずとも、

一貫した主張があれば、

いつかは、読み手が書き手の意図をくみ取り、

かつ書き手も読み手の存在を意識できる、

そういった時期が、各ブロガーにあるのではないかと私は思うのである。

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少し事例を述べたい。

サイドバーでご紹介させていただいている、「ビジネスピープル共和国」の管理人である、「ヨロン氏」は、「世の仕事人へエールを贈る」と題し、一貫したエントリーを書き続けておられる。

非常に広い分野に見えるであろう、「仕事に関するブログ」ではあるが、私は、ほぼ毎日更新されている中で、このように毎日、新しい斬り方で、様々なエントリーをアップされることに感嘆し、かつ「率直に凄いな」と思っている。

「ヨロン氏」の一貫した主張は、いつの頃か確固たる読み手が存在し、多数の賛同者が来訪されている。

「ヨロン氏」には失礼にあたることではあるが、まさしく

一貫した書き手の主張が、

読み手に明確に伝達されている

事例ではないか、

と思う。

(ヨロン様、勝手に事例として挙げてしまい申し訳ありません。)

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そうである。いや、そうなのだ。

私にとっての「活気あふれる・良質なブログとは」、

コメントやTBの多さではなく、

いかに書き手の思いに同調・共感する読み手が多数存在するか、

ということなのだ。

そして、前回のエントリーで「☆ひまわりが太陽に背を向けた☆」の管理人である「seiG」氏がコメントされたように、

リアルでないと、やはりブログという文章だけでは、相互が理解できる事項も格段の差があると思います。しかし、ブログである程度、意思疎通を図っていたからこそ、すんなりと会話もできました。

という、一貫したブログでの双方の思いと、リアルにブロガー同士が出会った際の印象が合致すればするほど、読み手・書き手とも主張・思いを双方が理解していることを再認識でき、その後もお互いが切磋琢磨し合いながらブログを更新し続ける原動力となるわけである。

ブログを更新続ける、あるいは来訪し続ける原動力は、

仮想・架空空間であるネットにおいても、

相互理解を読み手・書き手が意識し、

お互いを認め合う、認め合っているという認識を保持し続けること

にあるのではないだろうか。

かなり「日本人的な情緒思考」ではあるが、私は上述した「更新し続ける原動力」を読み手・書き手に感じさせる影響力(少し語弊はあるが)を常に保持したものが、「日本のブログ」であっても良いのではないかと思う。

簡単に言えば、「あぁ、こんなに素晴らしいブログがあるのなら、自分も毎日、続けてみよう」という思いを沸き立てるようなブログ、そして書き手も、その思いを意識し、更新する意欲をさらに増すブログが、「良質であり、活気のあふれるブログ」であるということだ。

物事には、すべて「悪循環と良い循環」が存在する。ブログの「良い循環・サイクル」とは、今まで私が述べてきたことではないだろうか。

この私の考えに異論・反論は多々あろうかと思うが、私はこのように思っている。

最後に

私は、「日本人の悪い癖」という過日のエントリーを書いた。

そして直後に、「ガ島通信」様に対して、第三者から見れば、少なからず批判的な内容、そして「ガ島」氏のブログにおいても、批判的なコメントを書いた。

恐らく、多数の方は、驚かれ、「こいつは、何者だ、何を言うやつか」と思われたであろう。

また、「quimito」氏からは、

私には「有力ブロガーなんだから、もっとまじめにエントリしなさい。その証拠にコメントが荒れてるでしょ。うだうだ言ってないで少しは行動したらどうなんですか」と読めました。

というコメントを頂戴した。

また、ある方からは「善人ぶっているように見える」といった内容のコメントも頂戴した。

多分、いや確実に、常に私のサイトを来訪いただいている方も、「小島は少し下手をうったな」と思われただろう。

しかし、本件こそ、読み手・書き手、そして私や「ガ島」氏との過去のやりとり等をあまりご存知でない第三者の方、すべてにおいて「相互理解に欠けていた」事例であると私は思う。

私は、なぜ「ガ島」氏について批判的なコメントを書いたのか。

それは、「ガ島」氏のサイトに対し、私が一方的な読み手の立場で、強烈な思い込みを持っており、それが露呈した結果である。

そして、「ガ島」氏も書き手として、ある程度、私の思い込みを意識しながらも「うまくコメントで表現された」と私は思い、かつ感じている。

しかし、まったくの第三者の方々からは、瞬間的には、ご理解を得られなかった。そして、様々なコメントを頂戴したが、私は、書き手として、コメントを頂戴した方々に対し、真摯に対応させていただき、その思いが最後には皆様に伝わったと思っている。

今まで述べてきたように、書き手・読み手・まったくの第三者という三者すべてに、瞬時にして理解を得られるようなブログを書き続けることは、至難の業であると言える。

ただ、「至難の業」を、

至極当たり前のようにクリアしていくことが、

良質なブログ・ブロガーになることができるか、

できないかの「紙一重の違い」だと

私は、このシリーズを書きながら最も感じたことである。

本当に、最後になるが「知的好奇心」というものが、ブロガーに限らず、人間として必要だと私は考えている。

前回のエントリーのコメントで「kaim」氏から、

「書くことは考えること」、量からしか質は生まれないとも思います。

という内容の貴重なコメントを頂戴した。ご指摘の通りだと思う。

そしてさらに付加すれば、常に「知的好奇心」を自らが持ちながら、ブログ界という大きな流れに逆らわず、かつ波に飲み込まれず、自己を抑制しながらも、果敢に新しいことに挑戦し続けるという気持ちを忘れないことが、「軸がぶれないブログ」であり続ける大きな要因であると私は考える。

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以上、シリーズはこれにて終了とさせていただく。

今まで、このような長文かつ堅苦しいエントリーに様々なコメントを頂戴した皆様に御礼を申し上げると共に、またまた是非とも、皆様の異論・反論のコメント等をいただければと思う。

ちなみに、当分、このような長文エントリーは挙げませんので、ご容赦を。正直言いまして、業務中に、ここまでの長文エントリーは無理です(と最後に本音をもらした私でした)。