ベンチャー企業社長の挑戦、そして苦闘

サン・アクト株式会社というベンチャー企業の社長が語ります。

お客様がいる限り、廃業しませんという決断の重み

老夫婦の決断

10年以上、お世話になっている酒屋さんがある。
会社からの帰路にあり、夜8時頃までは空いている。

少し、早く帰宅できた場合、ビールを買う。
単にビールを買うだけでなく、色々と世間話をするため、
長い時は30分程度、立ち話をしたこともある。

昼間に、店の前を通った時も、時間があれば、少し世間話をする。

私にとって大切な馴染の酒屋さんだ。

ご主人は酒の配達がメイン。店番は奥様。
奥様曰く、単に主人は配達だけで、店番などしたくないのですと、
同じ愚痴を何度も聞いていた。

世間話というよりも奥様としての私は、
数少ない愚痴をこぼすことができる相手だったのかもしれない。

もう既に70歳近い老夫婦の酒屋さん。
最近は、まったく配達されているご主人の姿を見ない。

3年ほど前に、店に行くと、ほぼ商品が無い状態だった。
近くにコンビニがあり、かつ量販店の酒屋に行く時代なので、
もう廃業しますと言われた。その際は2,3ヶ月後と言われていた。

その言葉を聞き、馴染の店が時代の変化と共に消えていくと、
私は悲しくなった。しかし、そんな気持ちなどは顔には出さず、
「頑張って、毎日、通うようにします」とだけ言って、
その場を去った。

あれから3年。

まだ酒屋さんは店を閉めておられない。
私も、その後も時々、買い物をしていた。
「いつ、閉店するのですか?」など聞くことなどできない。

ただ、ほとんど在庫が無かった。
私がいつも買うビールも最低限の在庫を確保されていた。

数週間前、極めて早い時間にシャッターが下りていた。
「とうとう閉店か」と思いながら、
「最後の挨拶がしたかったな」とも思いつつ車を走らせた。

そして、3日前。
帰路途中、店は空いていた。

いつものビールもあった。

私は思わず、聞いた。
「いつ、閉店されるのですか」と。

下を見ながらビールを袋に入れておられた奥様は、
私の言葉を聞いた瞬間に、顔を上げ、私の眼をしっかりと見ながら言われた。

「お客さんがいる限り、廃業しないことに決めました」と。

私は、瞬間的に、言葉を失い、
「おおきに」と一言だけ残し、車に戻った。

そして、車内で自然に涙が出てきた、少しだけだったが。

酒屋さんの店内は、明らかに私のためのビールの在庫を含め、
恐らく、数名分程度の量しか残っていない。昔はあった、
アイスクリームの冷蔵庫も無い。

ビールを冷やす冷蔵庫も3つのうち、1つのみに灯りが。

換言すれば、私がビールを買う限り、廃業されないということだ。
そして私以外の残りのお客様がおられる限り、廃業されないとも言える。

帰宅途中、次に酒屋さんに寄る時にどんな言葉を奥様にしようかなと考えた。

しかし、通常通り、私は奥様と接することに決めた。

一度は、閉店しようと思われた老夫婦。
そのお二人が十分に、話し合われ「お客様がいる限り、廃業しない」という重い決断をされたのだから。

その決断に私が異論を挟む立場には無い。

ただ、お二人の重みのある決断には、大きな敬意を表したい。

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本当の意味での「生死を伴う」格差の存在

悲しみ

 私は、飲食店も、ファミリーレストランも、そしてコンビニさえも、すべて行く場所を決めている。何度も通えば、顔馴染になり、マニュアル通りのやりとりでなく、心が通ったやりとりができると考えているからだ。

 ガソリンスタンドも、その中の一つ。価格では選ばない。店員さんと顔馴染になり、何気ない会話を10分程度、終えた後に店を出る。

 数年前の真夏、突然、車のバッテリーが止まった時は、馴染のガソリンスタンドに電話した。スタンドと、かなり距離は離れていたが、すぐに軽トラにバッテリーを乗せ、交換してくれた。もちろん、バッテリーと交換費用のみで、出張料など無かった。

 また、ガソリンを入れた後、通常は「ありがとうございました」で見送られるものだが、家族旅行に行く前に、車のチェックをしてもらった後は、「良き旅になるよう祈っています」と言われた。それだけで心が晴れやかになった。

 残念ながら、そのスタンドは3年ほど前に潰れてしまった。
 閉店という大きな看板を見た瞬間の無念さは、生涯、忘れることは無い。

 そして、2年程前から、通い出した新たなガソリンスタンド。

 店長には中学2年の娘さんがおり、ちょうど我が家の次男と同年齢だ。昼間にガソリンを入れる際は、店長が「本当に勉強しませんわ、社長のところはどうです」と店長の常套句を聞きながら、最後は「まぁ、なんとかなりますよねぇ」で終わる。

 夕方は、16時から22時まで勤務する71歳の方が私の担当となる。一度、辞めさせられたようだが、半年後に、また復帰された。
 この方は、若かりし頃、西陣で織物関係の仕事をされており、引退後、スタンドの店員となられた。

 2ヶ月ほど前、左手に包帯をされていた。

 「どうしたんですか、その手は」と私。
 「いやいや、こけてしまいまして」と店員さん。

 「仕事になりませんでしょ、それでは」と私。
 「いや、何とかやってます。休めませんので」と店員さん。

 骨折されたそうだが、スタンドを休むと、また解雇されるため、何とか激痛に耐えながらも、給油している車の窓を拭かれている。もちろん、私は窓拭きはしてもらっていない。

 そして、数日前、衆議院で消費増税の法案が可決した翌日夕方にスタンドに行った。

 「とうとう、消費税、通りましたねぇ」と私。
 「えっ、そうなんですか」と店員さん。

 この応答を聞いた時、瞬時に理解した。

 お一人で住まいされ、お一人で食事を作られていることは過去の会話で知っていたが、パソコンを持っておられるとは思っていなかったが、テレビも新聞も無いということを。

 スタンドには、雑誌や新聞などが置いてあるはずだが、それさえ見ておられないのだろう。

 少し、視点を変える。

 今年の夏、関西電力管内で計画停電が行われる可能性がある。事前の通達方法は、新聞、ネット経由、携帯でのメールなどだ。

 換言すれば、店員さんは、停電という情報を事前に知り得る状況に無いということ。もしかすれば、計画停電すら、未だに知っておられないかもしれない。

 今、このWeblogもそうだが、TwitterFacebookなど、多様なツールによって情報を得ることができ、発信することもできる。Amazonがあれば、ほとんどのモノを買うことができる。

 しかし、パソコンや携帯電話が無ければ無理な話だ。

 私の母親は、携帯電話を持っているが友人とのメールでのやりとりくらいで、あとは通話のみ。ただ液晶テレビで天気予報も見ることもでき、新聞も読んでおり、最低限の情報は確保できている。

 さて、お世話になっているご高齢のガソリンスタンドの店員さん。

 世間には、携帯やスマートフォンさえあれば、テレビも新聞も必要無いという方が存在する。店員さんは、唯一の情報源である新聞も無い。新聞くらい購読しろよと思われる方があるかもしれないが、他の生活費に回されているのだろう。だからこそ、骨折してもスタンドの店員を続けておられるのだ。

 「インターネットというインフラ」は、素晴らしいモノである。私も米国留学時代にネットがあれば、高い国際電話など払う必要が無かったなと、今でも思う。

 ただ、インターネットというインフラは「格差」を生み出す可能性がある。
 インターネットを使うことができない人と、使っている人には大きな情報の格差が存在することは、多くの方に理解していただけると思う。

 少なくとも、日本に限って言えば、インターネットというインフラがあったとしても、店員さんのように、インフラを利用できない方は多数、おられると思う。そして新聞もテレビも無い方も。
 計画停電も、台風情報も、地震も、すべて情報をリアルタイムで把握できない。正に、生死に関わることを知り得ることができない。

 インターネット、新聞、テレビといったインフラに依存し過ぎている今の日本。
 これらのインフラから取り残されている方々への配慮が無ければ、今後、インフラに依存できない方との格差は広がる一方である。

 新聞という最も古いインフラも利用できない人々の存在。その事実に気付きながらも何もできない私、そしてインターネットというインフラに傾倒し過ぎている今の日本。

 インターネットというインフラが発展した今、「格差」は既に生じている。そして何もインフラを利用できない方には、「生死を伴う」格差が襲っている。

 「解」は無い。ただ、現実に一人のスタンドの店員さんに「生死を伴う」格差が生じていることは事実として存在している。

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ある女の子の軌跡と私

共に歩もう

私の会社の通勤経路に小学校がある。

ある女の子が毎日、登下校していた。
かなりの坂道を彼女は毎日、通っていた。

車椅子で、自ら手で動かしながら、6年間。

毎日とは言えないが、私は彼女の登下校を見ていた。

小学1年から6年生になるまで、できる限り、見守っていた。
私の会社の通勤経路に100メートル程、細い道があり、
工事の関係で猛スピードで走る車がある。

近所の方は、もちろん、彼女のことを知っており、
彼女が細い道を通り過ぎるまで徐行運転する。
宅配便の方々も同じだ。

ただ、仕方が無いことだが上述したように、
工事などで初めて通る車はスピードを緩めない。
工事の車はちょうど登校時間に現場に向けて走る。
私や近所の方々は、工事の車の方にスピードを緩めるように、
何度も依頼していた。

時には、彼女は、同級生と共に下校していたが、
同級生が車椅子の彼女を助けることは無く、
談笑しながら、下校していた。

なぜ、彼女が車椅子の生活となったかは知らない。
会話もしたことも無い。
そして、同級生が車椅子を押してあげないことも知らない。

そんな彼女が今年の春に卒業した。

私の自宅前は我が子供達が通った、通っている小学校の登下校通路。

当番制で、登校時に立ち番をする。
過日、私は8時から30分間、立ち番をしていた。

その時、なぜか彼女が、彼女のお母様と共に私の眼前を通り過ぎた。
一瞬のことだが、なぜ彼女が通り過ぎたのか分からなかった。

その後、ゆっくりと考えてみれば、私の子供達が通っている中学校はエレベーターがあり、車椅子の彼女にとっては、近くの中学では無く、私の子供達が通っている中学校が、唯一の選択肢だと、気付いた。

恐らく、最寄駅までお母様と共に地下鉄に乗り、そして、お母様と共に中学に登校していたのだろう。

数日前、偶然にも一人で車椅子で登校している彼女に出会った。
「おはようございます」と私は何気なく、彼女に言った。

「何年間も、見守っていただいてありがとうございます」と彼女は下を向きながら一言。

私はその一言で、涙が流れ続けた。
「気を付けてね」と発するだけで精一杯だった。

小学校時代に、急な坂道を一人で車椅子で登っていた彼女。
数週間は、お母様と共に、中学に通っていた。

しかし、お母様と共に通うことも、中学入学して、2ヶ月程度で、
一人で登校すると彼女は自分で決めたのだろう。

きっと、彼女は自ら道を拓き、自ら、これからの人生を歩んでいくのだろう。

既に、小学校時代から、彼女は大空に羽ばたいていたと私は思う。

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少年が大志を抱くのは、本人であり親が押し付けるものでは無い

三男の軌跡

 ご承知のように、お陰様で我が家には、小学生から高校生まで、5人の子供がいる。

 お子様をお持ちの方は同感いただけると思うのが、自転車。小学生になる前に、自転車を乗ることができるようになるには、それなりの至難がある。
 自転車に乗ることができるようにすることが親も子供も最初の至難かもしれない。正直に言って「いらつく」場面もあったが、妻の尽力で、何とかなった。

 以下、このエントリの背景を述べる。

 5人の子供達は、年齢に応じて、将来、何になりたいかが、変化する。

 今、中学3年の次男は、小学生時代、消防士になりたいと言った。
 私は消防署に行って、その旨を伝えたのだが、色々と説明いただき、最後に消防署の方は願書を出されたのだが、「いや、実は私の息子はまだ小学生でして」と言った後に、極めてレアなポスター等を頂戴した。

 今、小学2年の末娘は幼き頃、パン屋さんになりたいと言った。
 もちろん、家族全員で近くのパン屋さんに通い続けたが、その当時、他に何もできることは無かった。今、末娘が将来、何になりたいかは不明だ。

 そして、小学4年の四男は、過去から今も、明確に何になりたいと発したことは無い。それはそれで良いと思っている。

 今、高校2年の長男は何になりたいかではなく、どの大学を目指すかが眼前の目標。
 「お兄ちゃん、京大は?」と次男。
 「お兄ちゃん、ハーバード大学は?」と突っ込む三男。
 長男は、無言である。怒ることもしない。
 恐らく、妻も私も長男も、現実に近付き、冗談では済まないことを長男は肌で感じているのだろう。

 さて、ここからが本題である。

 5人の子供達の中で、確固たる将来像を小学生時代に保持していたのは、現在、中学1年になった三男だけである。

 なぜだかはわからない。

 ただ、小学生時代に週末にキャッチボールを私と公園で真剣に続け、小学生高学年になった際には、お世話になっている近所の方と一緒に本格的な野球を土日に続けた。
 このような中で、本来であれば、周辺の小学生が所属する野球部に入るものだが、三男はなぜか入らなかった。理由は今も昔も聞いていない。

 お陰様で、過日、家庭訪問があった。妻曰く、小学生時代から野球をしている子供達と負けず劣らずの状態と先生は言われたそうだ。
 三男は、本当になぜか不明だが、ある時から野球が好きになった。高校野球プロ野球もすべて見ている。

 三男は、明確に言っている。

 「僕は、必ず巨人に入団する」と。

 現実的に、野球だけでなく、いわゆる成功しているアスリート・名選手は、三男よりももっと早く、幼き子供時代に両親が教えたり、教室に通わせ、結果として成功している。

 我が家は、そうではない。

 単に子供達が思うように育て、見守っている。そこには押し付けは無い。

 三男だけでなく、既に他の子供達も大志を抱いているのかもしれない。ただ、我が家は、親の意向を押し付けることも無く、見守ることとする。応援してと言われれば、できる限りのことはする。
 
 本当に見守っていれば、悲鳴をあげていることもわかる。
 その際は、できる限りのことをする、親として。

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散り方次第で花は二度、咲く:会社を潰しても再起は可能

flower

 私の前職はホテルマンだ。そのホテルの常務が私の父だった。

 20年近く前に、ホテルの関連会社に属していた私。そして、約15年前にホテルは会社更生法を申請して事実上の倒産となった。
 会社更生法申請当初、父は先頭に立って債権者各位に土下座を続けた。法律上、お金を債権者に渡すことはできず、ただただ、謝るしかない。罵声を浴びせられても、「申し訳ありませんでした」と、何十回も、何百回も、土下座をするしか方法は無かった。

 もちろん、他の役員も謝ってはいたが、先頭に立って、文字通り、矢面に立って、土下座を1年近く続けたのは私の父だった。実家も半分は売却し会社へ。車も軽自動車になった。

 少し視点を変える。

真面目に経営に取り組んだ結果、会社を潰すことは経営者にとって恥ではない: やまもといちろうBLOG(ブログ)

 私はこの記事に極めて、共感を覚える。私が思うに、会社が潰れかけようと感じた際は、まず経営者の給与カット、小さなオフィスへ移動、早めに金融機関に相談が不可欠。

 紹介した記事には、こう書かれている。

会社が潰れるというのは、ある意味当たり前なんですよ。

だから、潰れたときのことを、みんな見ています。会社の資金繰りが悪いのに高い遊興費を使っていないかとか、派手なオフィスにいるかとか、事前に資金状態が苦しいなどの情報を出してきて協力を要請してきていたかとか、潰れそうだと言うとき連絡が取れないとか、そういう話。

再チャレンジできる社会を! という掛け声はもちろんその通りだと思うんですが、チャレンジを容認するかはどう潰したか次第です。
 
 私も、そう思う。

 お陰様で私が属していたホテルの関連会社は連鎖倒産を免れた。ただ、取引先は皆無であり、何をやれば良いかも分からなかった。

 結局、ホテル業以外の「貴重な衰退樹木の回復」という全く違う分野の事業を開始した。しかし、2年間、給料無しで、無料で樹木を回復させた。相手は何と言っても樹木であり、目に見えるような回復には最低でも一年は要する。そのために無料で実績づくりばかりしていた。
 そして2年間、父・弟を中心に、お陰様で実績を上げることができた。しかし、実績を写真で掲載し、貴重な樹木を保有している寺院や神社に行っても、そう簡単に発注いただくことは無かった。

 しかし、救いの手が現れた。破綻したホテルの債権者のお一人だ。土下座を続ける私の父を見続けていた、あるお寺の債権者の方だ。

 「ちょっと境内の庭園を管理してもらえないだろうか」と父に電話があった。

 その方が、新たに事業を開始した際、最初にお金を頂戴したお客様。

 お陰様で、その債権者の方の紹介で、少しずつ、お客様が増え、今年で12年目を迎える。

 最初にお金を頂戴した債権者だったお客様の庭園の管理は、今も続いている。正月に、毎年、父は挨拶に行く。そして私が庭園を管理する際に、お客様は、私を経営者として「良く頑張っているね」や、「良く続いているね」と短いながらも勇気を与えていただく言葉を頂戴する。お客様は、今、私を「見続けておられる」ということだ。

 父の土下座が無ければ、今の会社も、今の私も無かった。

 父の土下座、そして、それを見続けていた債権者であり、今はお客様である、あるお寺のご住職。

 今、京都では桜の花が散っている。しかし、翌年には、また花が咲く。

 人生も会社経営も同じだ。散ることがあっても、散り方次第で花は必ず咲く。

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